重臣間の対立

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 攘夷問題については、小倉藩は終始幕府の施策に従っていたが、藩内には長州と同一歩調をとるべきだとする強硬論者があった。その急先鋒は藩主の弟小笠原敬次郎で、「攘夷実行に当たっては一々幕府に指示を仰ぐこともあるまい。直接朝廷にただし藩論を統一すべきである」と主張、幕命に従うことを第一とする高村志津摩と鋭く対立した。
 そうした重臣間の対立は、島村の師であった青木政美(まさよし)の責任を追及という事態となった。藩は政美を蟄居させることで抗争を避けようとしたが、さすがに藩主の弟である敬次郎の責任問題まで問われることはなかった。
 やがて島村は品川台場の警備を命じられ、急遽江戸へ向かった。要するに島村は名目はともかく飛ばされたのである。結局、小倉藩は穏健派の意見を尊重、外国船への攻撃は避け、忍耐強く長州藩の動向を見守ることにした。そうした藩首脳の意向を受け、鎌田思誠が田野浦在番所に派遣され、長州藩士との交渉に当たった。
 朝廷は三月一四日、幕府に親兵設置を命じ、小倉藩でも一五人の要員を上京させた。また朝廷は四月二三日を攘夷期日に予定していたが、幕府は五月一〇日とすることを決定した。
 長州藩は小倉藩との交渉に当たり、奇兵隊の瀧弥太郎を当てていたが、弥太郎は感情のまま白刃を翳(かざ)して攘夷実行を迫った。小倉藩として容認できるものではなく交渉は難渋した。思誠は乱暴な長州藩士に対し忍従を重ね、小倉藩の名誉と道義を担うことになった。
 長州藩でも、問題打開のため穏健な人物を起用することを模索していたが、そうした動きも過激派の台頭によって挫折した。奇兵隊などの諸隊は身分に関わらず創設されたはずであったが、世禄の藩士がはばをきかせ、その内部矛盾による思惑から、過激派は先鋭的な行動をとり小倉藩との対立をますます深めた。
 こうして、両藩の合意が得られぬまま攘夷実行の五月一〇日が迫った。