安全確保のため停泊していたペムブローグ号に対し、まず亀山台場の加農砲が火蓋を切った。つづいて軍艦庚申丸、癸亥丸の二隻が艦砲を放った。しかし、ペムブローク号に被弾はなく、同船は錨を上げ苅田沖へ避難した。
つづいて五月二三日、馬関海峡を通行するフランス軍艦キャンシャン号に対して前田砲台が火蓋を開き、軍艦庚申丸からも砲撃を加えた。キャンシャン号の艦長は部下に砲撃の理由を質すよう命じ短艇を下ろそうとしたが、短艇は長州藩の砲撃によって粉砕された。やむなく同艦は応戦しながら海峡を通過、玄界灘に逃れた。
小倉藩では、異国船に対する長州領からの砲撃に対し、従来からの「異国船が襲来した場合は掃攘」とある幕府の意向に従い、単に海峡を通過するだけの異国船への砲撃は行わないとの考えであった。
長州藩は異国船への砲撃のあと、藩士太田市之進・野村和作の両名、長府藩の生駒時三郎、磯谷謙蔵、松本濤菴(とうあん)を小倉表に派遣し、小倉藩首脳との面談を求めた。それに対し小倉藩は、当日の面談を断ったが翌日の面談を約し、一行は平穏のうちに赤間関に引き上げた。
翌五月二四日、小倉藩では取次役の大池金右衛門・高橋唯之丞が客館において、再度来訪した長州藩士と応接した。長州藩は次のように五項目を提示、小倉藩の対応について異議をとなえた。
一 | 、朝廷は五月一〇日を以て攘夷の期となす、貴藩すでに砲台を築き而して夷国船航行するを見て砲撃せざるは何如。 |
二 | 、隣藩のよしみに従ひ私闘に属するも宜く救援すべし。況んや皇国の戦に於てをや、然るに策応なきは豈(あに)その義を失ふに非すや。 |
三 | 、号砲は藍島・馬島・堺鼻湊口・大里・葛原・梶ケ鼻・速戸などに於て、夷国船を見るに従ひ逓次(ていじ)に三回打発するの通知あり。而して過日来実施せざるは何如。 |
四 | 、攘夷の議、弊藩と事違に出る時は之を京師に訴へざるを得ず。 |
五 | 、夷国船来るに当たり、一方の海岸に於て之を撃破すること難し、事機に由り弾丸貴地に射着するも亦測り難し、予め以て告くことを請ふ。 |
この長州の異議に対し、小倉藩は次のように答えている。
一 | 、幕府より五月一〇日は単に外夷拒絶の期に属し、なを討議を要するを以て、其間無謀の挙動を慎むべきの令あり、故に我藩敢で砲撃を行はず。 |
二 | 、救援のことも亦前条に準ず、然りと雖も貴藩危急に及ぶ時は之を救ふはもとよりなり。 |
三 | 、号砲のことは外夷を砲撃すべきの令を得るに非ざれば敢て之を実施せず。 |
四 | 、攘夷のことは前数条述ぶる所の意に由り、尋常航海・繋船などは敢で打撃せざるを以て或は貴藩の意と齟齬(そご)するものあらん。之を京師に上稟(じょうひん)するは貴意に任す。我藩は将軍の令を守るは即ち叡旨(えいし)を奏するものと信ず。 |
五 | 、異国船来るに当たり一方の海岸於て撃破し難きは実に然るものあらん、然れども我藩は未だ幕府の令を得ざるの間は敢て砲撃を行はざるべし、貴藩海岸に於て砲撃の何如は敢て擬議すべきに非ずと雖も、此際砲撃せざるも亦怯懦(きょうだ)に非ざるに似たり、若し来寇せば固より交互救援すべし。但し弾丸は務めて管地に射着せざらんことを請ふ。 |
(『小倉藩攘夷記』) |
小倉藩は従来の主張に従い、朝廷から庶政を委任されている幕府の令に従うのは当然であるとしている。これに対し、長州藩は勅旨に従うことを至上としていた。小倉藩はその観点から、長州藩に自重を求めたのであるが、激昂する彼らに通じることではなかった。
ついで五月二六日、長州はオランダ軍艦メジュサ号に対して、壇の浦・杉谷・前田などの台場が火蓋を開き、軍艦庚申丸・癸亥丸からも砲撃を加え、長州藩は攘夷実行を確実なものとした。藩主代理の毛利定広が台場を巡視し藩士を激励、朝廷からも「皇国の武威を示した」との勅旨を賜った。しかし、欧米列国はこの長州藩の不法な攻撃を座視することはなかった。