この日の戦闘について、小倉藩では次のように記録している。
一 | 、朝仏蘭西汽船二艘東より来る、其一は軍艦なり、長州台場より之を射撃し、仏蘭西軍艦も亦大砲を発し前田を焼く、其直前夷人小艇に乗じ管内田野浦に上り、役宅に来りて在番役鎌田六左衛門に面晤し、必ず長州と雌雄を決せんとす、勝敗如何に由り更に軍艦数艘を加えるべし、決して小倉管地に発砲せざるを告げ、長州人民を諭す所の仮名書翰を留めて去る。夷人三人、船将ヂイウル、ラウラクマン、ボウリュ。 |
(『小倉藩攘夷記』) |
上陸したフランス将校は海軍提督の書翰を差し出し、小倉藩に戦火が及ばないことを約した。その直後、今度は長州藩士志司久米之丞らが兵約一五〇人ばかりを率いて田野浦に上陸、小倉領の一部を無断占拠した。彼らは大砲をすえ、夷国船を挟撃すると一方的に言い放った。
これらを含めて、馬関海峡における長州藩の過激な行動を静観する小倉藩であったが、長州藩は宮城彦輔を遣し激しく抗議した。同時に朝廷を動かし、小倉藩京都留守居役を呼びつけ、朝廷は「馬関海峡に於て醜夷を打撃すべきを令ぜらる」と執拗に攘夷実行を迫った。
京都留守居役からその報告を受けた小倉藩は、高橋唯之丞・岡野六左衛門の二人を大坂に差し向け、閣老板倉周防守と面談した。そして、長州藩の先月来の異国船への砲撃と、それに同調しない小倉藩への執拗な抗議について如何に対応すべきか、幕府の回答を求めた。
六月一二日、閣老板倉周防守は、小倉藩の大坂邸留守居役を呼び、「松平大膳大夫(長州藩主)は、外夷拒否の内旨あるに由り、已に兵端を開きたるを以て平穏にこれを処し難きと述べている。幕府は横浜において諸外国と話し合いをしており未だ実際の拒絶に至っておらず、妄に兵端を開くは国恥を招くことになるので軽忽(けいこつ)に挙動すべきではない。その藩においてもこの意をくみ打撃を慎むべし」を伝えた。
結局、小倉藩に対する幕府の回答は従前の下令を繰り返すばかりで、長州藩を納得させ得るものではなかった。