久留米藩屋敷とは、瀬戸内海に港のない久留米藩に小倉藩が好意的に貸し与えた土地で、本来は藩主の参勤交代や藩米の輸送便宜に用いるためのものである。それを海防拠点にするとの朝廷からの通知であった。この久留米屋敷をめぐって、種々の事件に翻弄される小倉藩であったが、これまた忍従に忍従を重ねた。
七月二日、この日、田野浦の庄屋城井彦右衛門宅に集まった鎌田思誠・佐々木加左衛門・西庄左衛門・石川次郎左衛門の四人を前に、瀧弥太郎をはじめとする長州藩士が居並び、攘夷実行について再び議論を交わした。
小倉藩は「馬関海峡における戦闘は、もとより傍観の念なく策応救援せんと考えるが、未だ将軍筋より打撃の令を受けておらない。内勅ありといえども直接に奉戴すべきものではなく、関東から回答が得られるまで奉戴を遅延すべきであろう」と述べ、長州藩に自重を求めた。
これに対し、瀧弥太郎は「然らば勤皇せざるや」と議論を飛躍させ、さらに「攘夷の勅を奉戴しないのは不忠だ」として小倉藩の対応を非難した。小倉藩は「将軍よりの令を守るのが秩序であり、直ちに内勅に従うことは幕府に対して僣越のそしりを招くことになる」と反論し、長州藩に自重するよう求めた。
手段を選ばない長州藩は、小倉藩に偽勅さえ伝え攘夷実行を迫った。しかし、小倉藩は偽勅であることを見抜き、堂々と理を諭し抗議した。
普天の下、王土王臣にあらざるはなし、然れども今日なお政権を幕府に委任せらる、開鎖宜く朝命幕府に降るを至当とす。万一幕府朝命を奉せざれば宜く其の罪を天下に声して可なり、今幕府に命令なく其の罪を問はれず、却て内勅を降さざるは王者の道にあらず、今上陛下英明に在ませば必ず其の理を知食されざる理なし、惟(い)すに聡明を雍蔽(ようへい)し奉りて、勅意を矯むる者ならん、我が藩は鎮西の探題として一藩を預かる。苟も偽勅なるを知りて監軍を迎ふるは却て朝威を蔑にするに似たり。
一貫して長州藩の態度を諭した小倉藩は、佐幕各藩によって賞揚されることになった。とはいえ、現実の問題として長州藩との意見の相違は多々あり、議論をつづけても解決できるものではなかった。小倉藩は、幕府と長州との直接交渉により打開するとの思惑から、しかる人物を大坂へ派遣し閣老に願い出ることにした。そして選ばれたのが郡代河野四郎で、副使として大八木三郎左衛門が同行することになった。