朝陽丸事件

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 河野四郎は六月一五日、大八木三郎左衛門とともに藩船に乗船し大坂を目指した。ところが、大坂に着いてみると、頼みの老中小笠原長行が生麦事件の責任をとり江戸へ戻って蟄居していた。止むなく河野はさらに江戸へ向かい、七月五日に閣老水野和泉守と面談、長州藩のこれまでの暴横を幕府に訴え、特使を派遣して長州を詰問すべきを願い出た。これに対して幕府は、使番牧野左近・村上求馬・中根市之丞を西下させることを決め、七月一一日、幕使一行は河野・大八木の両名とともに軍艦朝陽丸で馬関へ向かった。
 朝陽丸が馬関海峡に差しかかったのは七月二三日である。七月二四日、小倉藩は斥候船を出し朝陽丸との接触を試みたが、長州藩は近づくことを許さなかった。
 七月二七日、朝陽丸は赤間関に停船、幕使一行は上陸することになった。中根市之丞は河野・大八木の両名に危害が及ぶことを恐れ、幕使の上陸の際に長持の中に潜伏するよう提案した。しかし、河野は「私には覚悟があります。ご一行に迷惑をかけることは致しませぬ」と言い、船室へ降りて行き直ちに自刃した。大八木も河野を追って切腹した。攘夷実行をめぐる長州藩との確執から、初めての死者を出した。後日、藩主忠幹はその死を惜しみ「武士の正しき心いたはしき、国の為なるさきがけぞする」との歌を詠んでいる。
 ところで、使番中根市之丞が携えた長州藩に対する詰問書は、
 
、外国船に対する攻撃は、暴挙であり国恥である。
、外夷拒絶の勅命があるといえども、策略を委任されている幕府において夷国と交渉中であり、その結果撃攘すると決まれば改めて命令を出す。来だ決定が出ない間は砲撃を中止すること。

 
 この二点を骨子とするものであったが、これを伝達すべく山口へ向かった中根一行は、道中の小郡付近で消息を絶ち、その後長州藩の何者かによって暗殺された。