朝陽丸が馬関海峡に差しかかったのは七月二三日である。七月二四日、小倉藩は斥候船を出し朝陽丸との接触を試みたが、長州藩は近づくことを許さなかった。
七月二七日、朝陽丸は赤間関に停船、幕使一行は上陸することになった。中根市之丞は河野・大八木の両名に危害が及ぶことを恐れ、幕使の上陸の際に長持の中に潜伏するよう提案した。しかし、河野は「私には覚悟があります。ご一行に迷惑をかけることは致しませぬ」と言い、船室へ降りて行き直ちに自刃した。大八木も河野を追って切腹した。攘夷実行をめぐる長州藩との確執から、初めての死者を出した。後日、藩主忠幹はその死を惜しみ「武士の正しき心いたはしき、国の為なるさきがけぞする」との歌を詠んでいる。
ところで、使番中根市之丞が携えた長州藩に対する詰問書は、
一 | 、外国船に対する攻撃は、暴挙であり国恥である。 |
一 | 、外夷拒絶の勅命があるといえども、策略を委任されている幕府において夷国と交渉中であり、その結果撃攘すると決まれば改めて命令を出す。来だ決定が出ない間は砲撃を中止すること。 |
この二点を骨子とするものであったが、これを伝達すべく山口へ向かった中根一行は、道中の小郡付近で消息を絶ち、その後長州藩の何者かによって暗殺された。