田野浦占拠と倉長談判

628 ~ 629 / 898ページ
 小倉藩が幕府に差し向けた河野・大八木の両名が自刃、幕使が暗殺されるという朝陽丸事件は実に痛恨きわまる事件であった。この一事をとっても、長州藩の暴挙は許されるべきものではない。ましてや、長州藩は小倉領に無断で上陸、田野浦に台場を築き外国船を挟撃しようとしていた。この長州の暴挙に対し、小倉藩はどのように対応したのであろうか、その経過を追ってみよう。
 七月一五日、田野浦を不法に占拠した長州兵は、さらに兵を進め田野浦のお茶屋を占拠、翌一六日には勅使一行を招き接待に使用した。いうまでもなく、お茶屋は藩主専用の施設で、普段は在番所が管理していた。さらに長州は、勅使一行を不法に築いた台場に案内し、大砲の試射さえ見学させている。
 七月一八日、長州の瀧弥太郎は部下とともに門司在番所に乗り込み、小倉藩が築いた門司台場の大砲が長州領を狙っていると難癖をつけ、大砲を台場から突き落とすといった狼藉ぶりであった。
 その日の瀧弥太郎らの暴挙について、小倉藩は次のように記録している。
 
、時に在番役鎌田六左衛門田野浦に在り、之を聞きて馳せ帰り庄屋柳井甚五郎の宅に合す。瀧弥太郎・賀成九郎等、各々露刃(ろは)の槍或は剱銃を携へ来り、座に即くの後、架たる所の大砲の重量を問ひ、攘夷の為めに備へたるや否を問ふ。重量は幾何にして固より攘夷の為めに備ふるを答へたるに、此砲台は射遠の機構にして弊藩を射撃するの意ならずやと云ふ。六左衛門(思誠)答ふるに決して左様な意なく御安心あれの言に、然らば我等大砲の位置を改むべしと云ひ、六左衛門並に附属吏員の制止を聞かず台場に至り、恣意に大砲を斜転推堕し暮時に及びて馬関へ帰還せり。
(『小倉藩攘夷記』)

 
 田野浦在番の鎌田思誠は門司在番をも兼務していたので、両在番所で個別に暴挙を働く長州藩士の対応に追われながら、あくまでも冷静であった。
 門司台場の大砲を突き落とした瀧弥太郎は、翌日にも同様の暴挙に及んだ。七月一九日の事件について、小倉藩は、
 
、長藩瀧弥太郎他数人門司台場に至りて、再び大砲を斜転推堕し馬関に帰還せり、長州藩夷船打撃せんことを求めしに我藩之を決し、大砲を装置するを見るに是を疑ひ、狼狽の両度に及ぶは如何なる考えや誠に遺憾なり。
(『小倉藩攘夷記』)

 
と述べている。長州藩は小倉藩に攘夷実行を求めながら、小倉藩が設置する大砲の砲軸が長州へ向けられているといって、大砲を台場から落とすといった粗暴な行動をとっている。一体、瀧弥太郎らの目的としたのは何であったのであろうか、彼らの行為は武士として座視するに耐えないことであったが、それでも小倉藩士は、歯を食いしばって堪え長州藩士との談判に臨んでいた。
 在番所にあって長州藩との交渉に当たった思誠は、幕府の「天保薪水令」を根拠に、異国船が水などを求めて寄港することの理を諭し、公海通行の異国船に対する砲撃は違法であると筋を通し、長州藩とは一切妥協することはなかった。