彦山(田川郡)には勅願寺院があり、朝廷との親密な関係で知られていた。当然ながら尊皇志士が入り込み不穏の動きを見せていたが、八・一八政変によって事態が深刻になった。噂では長州藩から三〇〇〇両の資金が渡されたとか、攘夷派七卿に従って西下した真木和泉が入山したといったことが囁かれ、小倉藩は緊迫した状況にあった。
一一月九日には多数の尊皇志士が入山したとの情報が寄せられ、農兵を待機させるなど緊張がつづいたが、これは修験信者の登山と判明してことなきを得た。しかし、その騒動から山内の謀議が露見し一一月一一日、二木求馬を士大将とする二五〇人が入山した。そのおり、尊皇志士の連判状を発見し山中の謀議が明らかになった。
小倉藩は連判した僧を捕らえ城下八百屋町の獄に投獄するとともに、座主高千穂教有を城下の彦山屋敷に軟禁し、彦山の管理を山内取締の管轄とした。
捕らえられた多くの僧は、後に小倉城自焼のとき斬首しており、これらの事件を総称して彦山義挙と呼んでいる。
明けて元治元年(一八六四)六月五日、京都・池田屋に集まっていた長州の志士二十余人が新選組に襲われた。この事件を知った長州藩士は激昂、ついに七月一九日、約二〇〇〇人の長州兵が御所を囲み、蛤門守備の会津藩と対立した。しかし、薩摩藩が朝廷の意を受けて会津藩とともに鎮圧に当たり、長州兵は敗退した。蛤御門の変である。