第二次攘夷戦-四国連合艦隊の報復

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 元治元年八月五日、かねて、長州藩の不法攻撃に対し報復を考えていたイギリス、オランダ、フランス、アメリカの四国連合艦隊は、イギリス海軍提督キューパー中将が指揮し豊後姫島沖から馬関海峡へ向かった。その威容はイギリス軍艦九隻、陸戦隊を含む兵員二八五〇人。オランダ軍艦四隻、兵員九五一人。フランス軍艦三隻、兵員一一五五人。アメリカ軍艦一隻、兵員五八人である。戦闘は午後四時一〇分、イギリス軍艦ユーリアラス号が火蓋を切った。ついで全ての軍艦が砲を放った。砲撃は約一時間つづいたが、長州藩の砲台はわずかに反撃したものの直ぐに沈黙した。
 その戦闘を、たまたま英国商人の召使としてユーリアラス号に乗り合わせていた日本人が見ていた。藤田泰蔵という江戸出身の若者である。泰蔵は後に軍艦に乗船したことをとがめられ、長崎奉行所の役人に捕らえられたが、そのときの調書に「長州藩の台場から撃ち出される弾はほとんど軍艦に届かず、どれも岸からいくらも離れていない海中にボチャンボチャンと落ちて水柱を上げた」と証言した。さらに言葉を継いで、「軍艦ユーリアラス号から打ち出される弾は的確に台場に命中、ドカーンドカーンと台場の大砲も石垣も吹っ飛ばした。命中精度に格段の違いがあった」と述べている。
 四国艦隊と戦う前の奇兵隊は意気軒昂であったが、いざ戦闘となると近代的な軍事力の欧米列強の前では全く無力であった。六日にはイギリスとフランスの陸戦隊が上陸したが、守備する奇兵隊は戦意をなくし、焼け跡の物陰からそっと覗き見をしていた。奇兵隊の軍監であった山県有朋は後に、「外国陸戦隊が上陸を始めたが、士気甚だ振はず、弱腰の者が多いから、自分は敗兵を纏めて頻に防禦を試みても、武器の精粗が懸隔して居るから、非常な苦戦に陥り(後略)」との追憶談を残している。
 惨敗した長州藩は四国連合艦隊に和議を申し入れた。その正使に選ばれた高杉晋作は、家老の養子との触れ込みで宍戸刑馬を名乗り交渉に当たった。通訳は伊藤俊輔(博文)と井上聞多(馨)の二人、二人は英国での留学を切り上げイギリス軍艦に同乗し帰国したのであった。
 ともかく八月一四日、長州藩と四国艦隊との間で、講和条約が締結された。外国船の馬関航行を認め、石炭や水の供給を約し、しかも三〇〇万ドルの賠償金を支払うとした厳しい条約であった。
 小倉藩が、連合艦隊と長州藩との講和条約を知ったのは八月一七日、フランス軍艦に赴いた上条八兵衛に、通訳の谷間海蔵が講和条約の成立を伝えた。だが、海蔵も講和条約の細部については伝えることはできないと述べ、小倉藩が知り得たのは条約締結の事実だけであった。
 長州が敗れた一カ月後の九月一四日、小倉藩の攘夷論者であった藩主の弟小笠原敬次郎が弓の稽古中に弦が切れ死亡した。死因はともかく、暗殺さえ疑われる敬次郎の死によって小倉藩も落ちつきを見せたのも事実である。