明けて元治元年(一八六四)七月、攘夷派公卿を追放した朝廷は、朝議で長州討伐を決定し幕府に伝えた。幕府は、将軍家茂自ら軍を進めると言明し、総督には前尾張藩主徳川慶勝、副将には越前藩主松平茂昭を命じた。
しかしその頃、高杉晋作は諸隊の軍事力を背景に俗論派の藩庁に叛旗をひるがえし、尊皇討幕の意思を明らかにした。一二月一六日、力士隊を率いた伊藤俊輔は馬関の役所を襲い、これを占領して「農商を安ずる」との高札をかかげ、正義派の存在を鮮明にした。
但馬出石に潜伏し形勢をうかがっていた桂小五郎(木戸孝允)が山口に帰り、藩庁は高杉晋作、伊藤俊輔、井上聞多、前原彦太郎(一誠)など、吉田松陰の門下生によって占拠された。彼らは王政復古を目的に、勤皇倒幕のために武力を養うべきであると考えていた。
彼ら長州藩士は、攘夷実行について意見の対立をみた小倉藩に対し限りない憎悪、復讐の思いを抱いていた。宿命的な倉長両藩の対決であったが、小倉藩には長州との対決を如何に処すのか、その対策さえ考える余裕はなかった。幕府は長州征伐の軍勢を整えていたが、その間に長州と薩摩の薩長連合が進みつつあった。