禁門の変

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 文久三年(一八六三)八月一八日の政変以降、長州藩内部では政変を主導した薩摩藩・会津藩および公武合体派の公家らに対する憎悪の念が沸騰し、「薩賊会奸」を除こうとする、いわば反クーデター計画が進められた。京都に潜伏した長州藩士による武力蜂起(御所への放火、京都守護職松平容保らへの襲撃)の計画は未然に阻止されたものの、元治元年(一八六四)五月下旬、京都方面の有利な情勢を見極めた長州藩は、国司信濃ら三家老に上京を命じ、失地回復の軍事行動を開始するのである。
 京都を目指した長州藩の諸隊は、京坂の主要地を占領し洛中へ向け軍を進めたが、元治元年七月一九日、ついに幕府・朝廷軍との先端が開かれた。世にいう禁門の変(禁門とは皇居の門のこと)がこれで、蛤御門・堺町御門付近で烈しい戦闘があったため、その名が冠されている。
 しかし、この戦闘は一日の内に戦況が決し、長州側が撃退されて終わった。これにより、長州藩は久坂玄瑞ら精鋭分子や、後盾となっていた尊攘派志士・浪士を戦死あるいは自刃によって失い、しかも、七月二三日には朝廷から一橋慶喜に対し、長州藩追討の勅命が下された。ついに長州は「朝敵」となったのである。隣領の小倉藩は、戦争凖備に追われることになったのは勿論、既に行っていた長州からの旅人取締りを、一層強化しなければならなくなった。