小倉藩の旅人規制①

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 小倉藩において、旅人の取締りがどのように行われていたのか、あまり古い時期のことは未詳だが、例えば文化年間においては次のような規制がなされていた。
 
(略)
、浪人并に虚無僧、宿町一宿の外相滞らせ申さず、其の外無用の旅人・商人の者、宿筋の外村々へ堅く立ち入らせ申すまじく候、是又前々申し触れ置き候通り相心得るべき事
(略)
(国作手永大庄屋文化一〇年日記六月一五日条)

 
 文化一〇年(一八一三)六月に、郡代・平林茂兵衛が仲津郡筋奉行らに示した触書の一条である。条文を裏返して解釈すれば、浪人・虚無僧以外は一泊を超えて宿泊してよい、用のある旅人・商人は往来筋を外れて村々へ立ち入ってよい、ということになろうか。これにもとづいた措置であろう、仲津郡大橋村(現行橋市)には村人の中から、旅人の監視役(一名)が置かれることになった(同前七月一日条・八月一〇日条。ただし、この監視役は継続して設置されていない模様)。
 天保六年(一八三五)、藩は穢多身分の人々に対する触書の中で「宿町で一泊させる外、旅人を滞在させることは兼ねてから禁止してきたところである。今後もまた、旅人に一夜の宿も決して貸してはならない」(国作手永大庄屋天保六年日記三月二七日条。現代語訳)と指示している。ということは、文化一〇年から天保六年までに浪人・虚無僧以外の旅人に対する規制も強化されたことになるが、そのように規制強化された時期は、今のところ未詳である。
 二年後の天保八年、郡代が出した触書には「往来の旅人に一夜を超えて宿を貸してはならない。もし一夜以上宿泊させたなら、宿主より事の詳細を届け出るように指示していた。ところが最近はそれが守られていないと聞く。もしそのような者がいるならば厳しい咎を申し付ける」とある(国作手永大庄屋天保八年日記七月九日条。現代語訳)。つまり、原則は一泊でも、宿主から後日届け出ればそれ以上の宿泊も許されたということである。
 いずれにせよ、少なくとも天保年間以降は、旅人全般について、一泊以上の宿泊は原則禁止されたことが分かる。一方で、天保八年の触書では、幕府法令にもとづき、行路病人に対しては「深切にいたわり」、「不作法・不人情」がないように指示している。徳川綱吉の生類憐み令の影響が後世にまで残った政策であるが、幕末期になると、こういった憐憫政策すら旅人の規制強化の中で否定されることがあった(病人であっても二泊はさせず、駕籠に乗せて追い出すことを指示した例。国作手永大庄屋万延元年日記三月二八日条)。