万延元年(一八六〇)一二月五日、アメリカ公使館(品川東禅寺)の館員・ヒュースケンが殺害されるという事件が発生した。これは、日米修好通商条約調印(安政五年六月)以後、幕府の開港策に反発して起きた攘夷事件の一つであったが、翌年正月、これら事件を受けて在府の長崎奉行から小笠原藩邸に相談があった。それは、攘夷事件を起こす暴漢(水戸藩浪人などの仕業という噂があった)が九州に入る可能性があり、もしそうなったら何を仕出かすか分からない。また、彼らはどんな格好に姿を変えてでもやって来るだろう。小倉領は長崎への通路でもあるから、旅人の取締りをより厳重にしてもらえないか、との内容であった。
これを受けた小倉藩では、次のような旅人の取締り強化の触書を領内に流した。すなわち、①六部や千箇寺参りといった巡礼者、あるいは物貰いの類が村内に立ち入ることを禁じる、②宿駅であっても旅籠以外で宿を貸してはならない。また病気以外の理由で二泊させてはならない、③宿駅の旅籠は、旅人を宿泊させたなら、その国許、名前などをよく聞いておき、毎月一五日と二九日に帳面を提出すること。また、宿駅で旅籠屋稼業をしている者の名前を今月(万延二年二月)二五日までに藩へ届け出ること、④大庄屋は管轄の手永内を折々巡回し、不締りがないようにすること、⑤庄屋・方頭は都合をつけて日々村内を廻ること。特に無住の寺院や村から離れた家は気を付けること、他村の庄屋になっている者は、早々にその村の役宅に移り住み、不行き届きがないようにすること、⑥渡海場所の旅人改めは特に厳重にすること、⑦渡海場所ではない浦方は、これまでのとおり、旅人を渡海させてはならない、というものであった(国作手永大庄屋文久元年日記二月二〇日条)。
特に注目されるのは、③宿泊者の報告義務化であり、これを境に、旅人の管理・取締りは格段に「向上」することとなる。仲津郡の場合、秋月往来の山鹿村(現犀川町)と中津往来の大橋村が宿駅(山鹿は本宿、大橋は半宿)だったので、以後この二村は毎月二回の宿泊者報告をしなければならなくなった。
さらに、翌文久二年四月、薩摩藩の「国父」島津久光の上京に関連して、久留米の神官真木和泉、薩摩藩の橋口伝蔵ら倒幕激派の行方が追われたが、江戸では彼ら不穏分子の中で、小倉藩の農村に潜んでいる者が多人数いるとの噂があった(国作手永大庄屋文久二年日記五月一〇日条)。これを受けて小倉藩の旅人取締りは一層強化され、各村の入口には「浪人躰の者并に無札の旅商人、六部・千ケ寺の類、村内へ堅く立ち入るまじき事」と書かれた高札が建てられた(同前五月一四日条)。また、万延二年二月に長崎奉行からの要請を受けて出された旅人取締りの触書を内容強化し、再度領内に触れ出した。
中でも月二回(一五日・二九日)であった宿泊者の報告を月三回(一日・一〇日・二〇日)に変更しているのは注目される(同前六月一日条)。これを受けて、大橋村から「旅商人が一泊しかできないのでは商売の決済ができず困っている。相応の運上は納めさせるので、四、五日位は泊まることを許可してほしい」との願いが出されたが、許されるものではなかった(同前六月三日条)。