第一次長州征伐

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 長州追討の勅命を受けた幕府は、八月に入って、将軍自らの進軍を声明するとともに、中国・四国・九州の二一藩に出兵準備を命じ、前紀州藩主・徳川慶勝を征長総督に、越前藩主・松平茂昭を副将に任じ、征長軍諸大名らに対しては攻口五道の部署を指示した。小倉は最前線の一つであったから、幕府の命に従って九州の諸藩が陣を構えることとなり、唐津藩が小倉城下町へ入った(八月五日頃)のを皮切りに、福岡・薩摩・熊本・中津藩などが小倉及びその周辺に布陣した。一〇月に大坂城で開かれた軍議(徳川慶勝、幕府首脳、諸藩重臣)により、一一月一八日が総攻撃の日と決められ、徳川慶勝は広島に、副将の松平茂昭は小倉に出陣し、一一月上旬には長州攻撃の陣容がほぼ整うに至った。
 一方の長州藩では、四国(イギリス・フランス・アメリカ・オランダ)連合艦隊が、前年から長州藩が行ってきた攘夷行動(外国船の砲撃)に対する報復として、八月五日から八月八日の四日間、下関の台場を攻撃し、悉くそれを占領・破壊した。禁門の変、四国艦隊の下関砲撃と、長州藩内は極めて混乱したが、九月下旬に行われた藩是決定の会議で保守穏健派(俗論派)が急進派(正義派)に勝利し、それによって幕府・朝廷に対する恭順謝罪の方向で調停が進められることになったのである。
 結局、長州藩が三家老(益田右衛門介・国司信濃・福原越後)の首級を差し出すことで戦争は回避され、この「第一次長州征伐」は一戦も交えることなく終わるのである。征討軍は一二月二七日に兵を解いている。