仮病をつかう農兵

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 小倉藩の農兵制度は、文久三年(一八六三)三月に、異国船の接近に備え、海岸警備にあたることができる人物を選び、届け出るよう農村部に指示したところから始まる(国作手永大庄屋文久三年日記三月一〇日条)。その指示を受け、大庄屋らは早速、農兵候補者の名前を届け出たが、リストアップの対象となったのは、村役人層や多額の献金によって苗字などの格式が許された有徳人らであり、この時は募集に応じる者が多かったため、すぐ予定の人員に達したという。農兵募集に応じる者が多かった背景には、それによって「格式」が手に入るからであったと思われ、彼らにどれほど海岸警備に対する認識があったか疑問である。藩もその辺りのことは承知の上だったであろう。
 しかし、最初の動機は何であれ、また当所の目的が海岸警備に限定されていたとは言え、農民を戦闘員に加える道が開かれたことは間違いない。事実、以後は済し崩し的に、海岸警備以外の戦闘員としての役割が農兵に課せられていく。早くも同年八月には「以後の儀は海岸に限らず何れの場所たり共差図次第罷り出相働くべき」こと、つまり海岸警備以外の任務についても、指示があり次第従事しなければならなくなった(同前八月二四日条)。
 このような、済し崩しとも言える経緯のためか、農兵の士気は必ずしも高くなく、第一次長州征伐の戦闘準備が進み、戦地へ赴くことが現実味を帯びる中で、どうにかその任務を免れようとする者が跡を絶たなかったようである。次の史料は、そのことを示すよい例である。
 
長州行き農兵の内虚病相構え、代人に兼々勝負事取り扱い風儀宜しからざるもの、又は幼少の者をも差し出す輩これ有る哉に相聞こえ相済まざる事に候、風儀宜しからざるものは、途中にて逃げ去りても耻(恥)と思わず、幼少に候へば大切の御用先御差し支えに相成り、以ての外の事に候、これに依り、庄屋元にて厳重吟味に及び、右様心得違いのものこれ無き様申し達せらるべく候、以上
  一一月一二日       和田藤左衛門
 仲津郡大庄屋中
(国作手永大庄屋元治元年日記一一月一三日条)

 
 長州征伐に従軍する農兵の中に、仮病を使って素行の悪い博徒や幼少の者を代理に立てる者がいる。博徒は途中で逃げてもそれを恥と思わず、幼い者では役に立たない。このようなことがないよう、庄屋が厳重に気を付けよ、というのである。また、ほかにも農兵の士気の低さを示す例は多いが、この時に至っては、農兵自身の自覚など度外視して役目が課せられていく。例えば仲津郡では九月の段階で、小倉御本陣詰二二人・大橋村詰一〇人・海岸締り方七人・沓尾村詰五人・講武所詰五人・円光寺詰五人・門司浦詰四人の合計五八人役を、二五九人の農兵が交代で勤めさせられている(同前史料九月三〇日条)。また、当初決められていた一一月一八日の総攻撃の日が近づくと、安志小笠原藩に小倉藩の農兵が貸し出されたり、長州征討軍本陣詰めの原主殿・小宮民部・小笠原内匠といった藩重臣の陣隊に農兵が付属させられ、足軽のような働きを強要されるようになるのであった。
 なお、農兵の士気の低さは第二次長州征討戦の時も同じであり、仮病を使ったり、戦場から逃亡したりする農兵が跡を絶たなかった(第三項参照)。