小倉藩の旅人規制③-「長賊」の取締り-

640 ~ 642 / 898ページ
 小倉藩において、文久三年(一八六三)以降、長州藩を意識した旅人取締りが行われたことは、「大橋村伝兵衛捕縛一件」を例に前述したとおりだが、これが禁門の変(元治元年七月一九日)以後になると一層のものとなる。
 小倉藩領には七月末頃に長州征討に関する幕府大目付の触書が届いたようだが、これを受けた藩では、防長二国の百姓・町人が領内に立ち入ることを禁じ、他国から故郷(防長)へ帰るにも、小倉藩領内の通行を一切禁じた(国作手永大庄屋元治元年日記七月二九日条・八月一日条)。またもし、防長の者が領内に来ているのを見かけたら、次のように申し聞かせるよう指示がなされた。
 
其の方共、年久しく爰元へ罷り越し候えば、知音の者も多く、相互に商売に相成り取り続け候所、去月十八日九日頃、京都表容易ならざる事柄にて、恐れ多くも禁庭へ弓を引き筒を向け候、右様のものは朝敵と申す名の付き候事故、王土を踏せ候事は相成らず、又江戸表へ右同様の心得違い致し候ものは、王敵と申すものにて、其の侭に差し置かれ候ものにこれ無く、其の方共も其の地に生まれ候へば、矢張り朝敵に候間、是迄の通り当所へ通路致させ候ては官武へ相済まず、不慈悲の様にこれ有り候へ共往来差し留め候、いづれ京・江戸に御詫びこれ有り、以前通りに治り候えば、また是迄の通り通路、相互に商売致し候様相成りたく、ケ様申し聞かせ候えば事長く候へ共、一旦朝敵とか王敵とか名の付きたるものに如何様致し候ても、もとにかえらぬと申にてはこれ無く、改めさへ致し候へば又素の通りに相成り候故、迚も生涯いけぬとたい屈致さず様、実貞に仕り候へば自然と運の廻るものに付き、京都・江戸の御高恩忘却致さず様仕り申すべく候、右相済み候迄は此の地に参り候事相成らず候、この旨申し渡し候事
 八月
(国作手永大庄屋元治元年日記八月三日条)

 
 これはどの長文を実際に読み聞かせていたのか疑問ではあるが、それにしても意外なほどに気を遣いながら通行禁止を説明していることが分かる。冒頭にもあるように、長年の商業活動を通じて、切り離し難い関係が両者にはあったのだが、それを断ち切るのは長州だけでなく、小倉にとってもマイナスであったろう。だから実は、この説諭文を通して、小倉側の商人らにも長州人通行禁止の趣旨を伝える意図があったのかもしれない。
 また、これとほぼ時を同じくして、領内の浦々から、雇われて防長へ船を出すことが禁じられている(同前八月五日条)。さらに、領民が夜中に小倉城下を通行する場合は、鑑札を所持するものと決められ、各郡では藩から下された鑑札を、小倉詰めの農兵や城下町に用向きのある者へ配布した(同前史料)。長州征伐に関連して、「長賊」の語が使用された法度が初めて領内農村に流されたのは八月中旬であった(同前八月一九日条)。