ここまで見てきたように、元治元年(一八六四)は、第一次長州征伐に関連して非常に慌しい年であったが、偶然ながらこの年は甲子の年であった。甲子の年は、戊辰、辛酉とともに「三革」といい、変事が多い年とされ、日本では古くから縁起をかついで改元することが多かった。また朝廷は、甲子の年などに上七社(伊勢・石清水・賀茂・松尾・平野・稲荷・春日)と宇佐宮・香椎宮に奉幣使を派遣し、変事に対する安全祈願を行ってきたが、七社奉幣使は嘉吉二年(一四四二)に、宇佐・香椎奉幣使は元亨元年(一三二一)に中断していた。それが江戸時代中期の延享元年(一七四四)に、七社奉幣使は約三〇〇年ぶり、宇佐・香椎奉幣使は実に約四〇〇年ぶりに復興されたのである。江戸時代において、七社および宇佐・香椎奉幣使は、延享元年以降六〇年に一度(甲子の年)の大奉幣使として、文化元年(一八〇四)、そして元治元年の計三回発遣されている。
元治元年の奉幣使(勅使梅渓通善、供奉人数二〇〇名)は五月二一日に京都を出発し、六月上旬に小倉藩領を通行するが、不穏な動きをとる長州に神経をとがらせ、厳重な旅人取締りを行っていた時期だけに、藩にとっては様々な意味で負担が重かったであろう。また小倉藩領の場合、大里に上陸後、宇佐宮へ向かう往路と、それから香椎宮へ向かう小倉までの復路、さらに香椎宮奉幣後、福岡藩境から大里までの帰路も応対をしなければならなかったので、小休所・宿泊所となった宿駅などは凖備に追われた。
小倉藩には幕府直轄の五街道で見られるような助郷村は設けられず、日常的な人馬継ぎ送りは、原則として各宿駅が一村限りで勤めていた。しかし、奉幣使のように、臨時的で規模の大きい、しかも勅使の下向ともなれば、一村限りではとても無理であり、各宿駅が属する郡全体が役割分担を行って人馬役を勤めた。奉幣使への対応が、村役人や領民にとって重い負担であったことについては、往路・復路の宿泊所であった築城郡椎田駅の、文化元年奉幣使の事例に詳しい(『椎田町史』)。
なお、元治元年奉幣使は、往路の六月一〇日、復路の六月一七日にそれぞれ、大橋御茶屋において小休をとっている(国作手永大庄屋元治元年日記六月一〇日条・一七日条)。仲津郡筋奉行・和田藤左衛門は、先例を学ぶため、大庄屋・庄屋が所持する延享・文化の奉幣使記録を借用している(同前四月一八日条・五月一〇日条)。