俗論派が藩論を握り、三家老の首級を差し出すなどして一応服罪した長州藩であったが、元治元年(一八六四)一二月一五日に高杉晋作が下関で挙兵し、翌元治二年(一八六五)二月末には彼ら正義派が藩庁をほぼ掌握するに至って、藩論も恭順謝罪から武備恭順へと転換した。長州処分問題をめぐって紆余曲折していた幕府であったが、長州藩内部の不穏な動きを受け、彼に「容易ならざる企て」があり、また悔悟の様子も見られないとの理由から(将軍上京の朝命が下っていたのも理由の一つ)、五月一六日に将軍家茂が征伐のため進発することになったのである(将軍進発のことは、五月上旬に小倉藩領内にも知らされる)。
五月二二日に入京参内し、その後大坂城へ入った家茂は、徳川慶勝・松平容保らと長州処分を議し、藩主毛利敬親や支藩の徳山藩主毛利元蕃らを大坂に召致しようとしたが、一向に従う様子が見られなかった。そのため家茂は九月一五日に再び入京して長州再征を奏請し、朝議は紛糾したものの、同月二二日に至り勅許が下ったのである。