長州再征が現実味を帯びる中、小倉藩は旅人の取締りをさらに厳重なものとした。具体的には、慶応元年(一八六五)閏五月、次のような内容の触書が領内農村に流されている。
①旅人が宿駅の宿屋で一泊を超えて宿泊してはならない。仕方なく二泊する場合は届け出よ。②こういう時勢なので、宿屋においては殊更に念を入れて、宿泊者の往来証文をよく改めたうえで止宿させよ。宿泊者の詳細については、庄屋・方頭・町年寄など係の役人に届け出よ。③届けを受け取った役人は、すぐ宿屋に出向き、内容に間違いないか確かめよ。そしてその都度小倉へ届け出よ。④仕方なく二泊させる場合は、そのことを届け出て指図を受けよ。往来証文に不審な点がある者は、捕まえておけ。⑤宿駅の役人は、毎晩交代で宿屋に出向くこと。⑥たとえ小倉藩領内の者でも、宿泊したならば届け出なければならない。⑦他領にいる親類がこちら(小倉藩領)に来た場合も、宿泊させてはならない。⑧他領にいる親子・兄弟などの近親者で、用事があって仕方なく一泊した場合は、そのことを届け出よ。もしどうしても二泊以上しなければならないのなら、伺い出て指図を受けよ。⑨たとえ小倉藩領内の親類方に出向く時でも、一泊する場合は、居村の庄屋・方頭の判をついた証明書を所持して出向け。宿泊させる方も村役人に届け出よ。⑩庄屋・方頭が不在で、証明書が用意できない時は、親類・五人組の誰かに判を付いてもらえ(長井手永大庄屋文書慶応元年日記閏五月二六日条)。
小倉藩の旅人の取締りも、いよいよここまで厳重となった。宿駅における宿泊者の報告は、文久二年(一八六二)五月の触書により月三回(一日・一〇日・二〇日)と定められていたが、これ以後はその都度報告しなければならなくなったのである。残念ながら、国作手永大庄屋の慶応元年日記が現存しないため、大橋村における宿泊者の報告が確認できないが、長井手永山鹿村の例で、(当初混乱があったようだが)確かに宿泊者があったその翌日に報告するようになっていることが確認できる(同前六月二二日条など)。
それにしても、親類同士の行き来すら規制された領民たちの心情は、いかがなものであったろうか。そのストレスは我々の想像を超えたものであったに違いない。この年の一二月には、旅人御取締りの一貫として、護符を配る宇佐宮社家の名前とその受け持ちの村を書き出すよう、大庄屋に指示がなされている(同前一二月一日条・一二月三日条)。