長州再征については、朝廷・諸藩から反対の意見が強かったのであるが、再征勅許を得た幕府は慶応元年(一八六五)一一月七日に三二藩の征長部署を決定し、また長州処分の勅許(領地一〇万石の削封)も得ていたので、翌慶応二年一月二二日、老中小笠原長行を広島に派遣して長州との交渉にあたらせた。しかし、幕府との対決色を強めていた長州との話し合いがうまく運ぶわけもなく、交渉は事実上決裂し、幕府は諸藩に対して六月五日をもって諸攻口からの侵入を命じたのである。
第二次征長戦は、六月七日に幕府軍艦が周防国大島郡を砲撃したことよって戦端が開かれた。この戦争は、長州藩を取り囲む四方面(芸州口・石州口・小倉口・周防国大島郡)で展開されたので、長州藩側では「四境戦争」と呼んだ。
小倉口の幕府軍は、老中小笠原長行が指揮をとり、小倉藩のほかに熊本・久留米・柳川・唐津といった九州諸藩が加わり、長州藩側は高杉晋作や山県狂介(有朋)らが指揮をとった。小倉口の戦端は、長州藩が六月一七日に田野浦を急襲したことによって開かれるが、士気の低い幕府軍の諸藩は戦闘にほとんど参加せず、戦いはもっぱら長州軍と小倉軍との間で交わされた。
戦況は長州有利に進み、門司・田野浦の前線基地はことごとく破壊されてしまったものの、その後は七月三日の大里の戦い、七月二七日の赤坂の戦いと、局面ごとにはなおも一進一退が続いていた。しかし、七月二九日夜、幕府軍に将軍徳川家茂急逝(七月二〇日)の知らせが届くや事態は急変し、翌三〇日、小笠原長行は戦線を離脱して海路長崎へ逃れ、出陣中の熊本藩をはじめとする九州諸藩も国元へ撤退していったのである。
全く孤立してしまった小倉藩は、八月一日に自ら城へ火を放ち、戦線を企救・田川郡境(金辺峠)、企救・京都郡境(狸山)へ下げることになる。前日、小笠原長行の逃亡後に行われた軍議では「此上ハ籠城シテ防キ難キ時ハ金辺峠ニ人数引揚防戦ノ手筈」と決まっていたのであるが、小倉藩家老・小宮民部が「肥後何某とやらに相談」の上、ほぼ独断の形で城と城下町に火を放ったのであった(岡家文書「出衛存命中之事条荒増控置者也」)。
この小倉城「自焼」をめぐっては、史料によって、そこに至る経緯の記述に若干違いがあるが、「小宮民部が(熊本藩の者と相談の上)独断で火をつけた」ということは、既に当時から藩士の間で広く語られていた(「藤田弘策日記」など)。今後、緻密な検証により史実の見極めが必要されるところであろう。
なお、小宮民部が相談したという「肥後何某」とは、熊本藩退去後も小倉に居残っていた、竹崎律次郎という熊本の郷士であったといわれる(田中又吉「小倉丙寅変動」など)。
その後、小倉城は翌二日まで燃えつづけ、武家屋敷が集中していた城下町西側はほぼ全滅した。小倉城自焼の情報は瞬く間に領内に広がり、同時に各地で農民らによる打ちこわしが発生している(第三項参照)。