難を逃れた国作手永大庄屋役宅

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 大橋村には、文久二年(一八六二)に、九間×四間の規模で草葺きの国作手永大庄屋役宅が、同郡国作村に所在した旧役宅の古材を利用して建設された(国作手永大庄屋文久二年日記三月一三日条・九月二六日条ほか)。建設場所は、中津往来沿い、現行橋市中央一丁目三番地五号付近であった。
 小倉城「自焼」後に領内各所で起こった打ちこわしは、まず京都郡苅田村(現京都郡苅田町)近辺から始まり、そこから郡内の大庄屋・庄屋の役宅や商家などが次々と襲われていった。翌八月二日、京都郡の打ちこわし勢は行事村(現行橋市)の正八幡宮に集結して、村役人の所持する水帳(土地台帳)を焼き払うことに決め、延永手永大庄屋役宅などを襲った。しかし、間もなく藩の鎮圧隊が到着し、一人が射殺、九人が捕縛され、残りは散り散りに逃げ去っていった。捕らえられた者のうち三人はすぐに新町村(現勝山町)で打ち首にされている。京都郡から起こった打ちこわしは、二日以降に仲津郡・築城郡・上毛郡へ飛び火し、同じく大庄屋役宅や商家が襲われていったのである(「慶応二年丙寅仏山堂日記」ほか)。
 国作手永と同じ仲津郡内の例でいえば、長井手永大庄屋の役宅は八月二日の晩に打ちこわし勢によって火が付けられ、相当な量の公用帳簿が焼き払われた(第三項参照)。また、その他三手永(元永・平嶋・節丸)の大庄屋役宅も「残らず打ち崩し、焼失」したのであった(国作手永大庄屋慶応二年八月三日条)。したがって、当然、国作手永の大庄屋役宅も被害を蒙る可能性が高かったのだが、同手永に限っては、それを免れたようである。八月三日に大庄屋・国作昇右衛門が郡奉行らへ宛てた手紙の中で「大橋の方は村方人別より防ぎ方致し、只今迄は無難」、つまり打ちこわし勢が大橋に入るのを、村人が協力して防いでいることを伝えている(同前史料)。それでもなお、八月三日の段階においては、危機的状況に変わりなかったようだが、仲津郡の打ちこわしは翌四日には沈静化し、郡内では唯一、国作手永の大庄屋役宅のみ被害を受けずに済んだのである。
 ただ、打ちこわしは一応鎮静化したが、その後もさまざま不穏な噂が仲津郡内には流れていた。大橋村では「御茶屋が焼き払われる」との風評が流れ、村人たちは大庄屋らの静止にもかかわらず、難を逃れようと荷物をまとめて逃げ始め、大混乱となったのであった(同前八月四日条)。