止戦交渉

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 幕府征長軍の足並みは、小倉口だけではなく、芸州口・石州口のいずれでも揃わず、慶応二年七月以降は有力諸藩から相次いで休戦・解兵が建白された。七月二〇日に将軍家茂が死去し、事態の好転を望めなくなった幕府は、八月二〇日に将軍薨去と一橋慶喜の徳川宗家相続を発表し(将軍宣下は一二月五日)、翌二一日には休戦の御沙汰書が出された。幕府と長州との交渉は広島で行われ、九月二〇日には休戦の勅命が長州に伝えられて、九月中に幕府軍の撤退はほぼ完了している。
 しかし、小倉藩では継嗣豊千代丸や藩主忠幹(慶応元年九月に死去)の夫人茂代子(後に落飾して貞順院)らを熊本へ避難させた上で、一〇月中旬まで戦闘が続けられている。金辺峠(企救・田川郡境)、狸山(企救・京都郡境)を防衛線とした小倉側は、一時は城下町に突入するなどして一進一退の攻防戦を続けたが、休戦がなった芸州口・石州口の兵を投入する長州軍の優位は変わらず、小倉藩は一〇月中旬、太宰府に駐屯していた熊本藩・薩摩藩の藩士に周旋を依頼し、止戦交渉へ入ることとなる。
 交渉は、一時決裂しかけたが、慶応三年(一八六七)一月に和議が成立した。その際両藩は、①再度幕府から長州への出兵が命じられても、小倉藩はその命が不条理な場合は諫言して出兵しないこと、②しばらくは企救郡を長州が預かること、③肥後ヘ一時避難している継嗣豊千代丸(慶応三年六月二五日家督相続。忠忱と改名)をはじめとする前藩主家族の居宅を、京都郡稗田村に建設すること、といった内容で合意している。
 小倉を退いて後、藩庁は暫く田川郡採銅所町に置かれたが、慶応二年一〇月一日に香春町の御茶屋に移され、「日々役々出務諸事、城内のとおり」に心得るよう指示された(小笠原文庫「豊倉記事」)。またおよそ三カ月後の一二月二〇日には、長州との講和を控えて、藩庁を添田に移転した。さらに、慶応三年三月には、再び香春へ戻ることとなり、三月一四日から一七日にかけて移転の作業が行われている。