藩は、崩壊しかけた財政状況の中、慶応三年四月二〇日に政治掛奉行職の担当職掌を定めるとともに、五月一日には香春光願寺において藩校思永館を再開。あわせて領内に散った藩士子弟のために分校も開設するなどして、香春藩庁を中心に藩制全般の建て直しに取り掛かった。一方で、新政府は慶応元年閏四月に旧幕府領に府・県制を設け、旧大名領を「藩」という呼称で称することにしたが(府藩県三治制。これによって初めて「藩」が公称となる)、「香春藩」の藩庁はあくまで仮のものに過ぎず、役所としての機能性、交通の利便性、また防衛上の地理的条件を考えると、藩制の建て直しに並行して、新藩庁の建設が急務の問題であった。
新藩庁の建設地を探すことは、小倉城自焼後の早い段階から行われており、いまだ長州との戦闘が続いていた慶応二年一〇月初旬、郡代杉生募以下三十数人が藩庁建設候補地見分のため京都郡・仲津郡を訪れ、京都郡黒田村、同郡稗田村、仲津郡錦原を見分している(国作手永大庄屋慶応二年日記一〇月四日条)。慶応三年一月に長州と取り交わした止戦談判の合意文書では、京都郡稗田村に藩主居宅を建設することで確認しあっているが、これは肥後に避難中の継嗣豊千代丸らを呼び返すことについて、長州に承諾させるための方便であったと考えられ、実際にはこの段階で藩庁建設地は決まっていなかった。
新藩庁建設地は明治元年(一八六八)一一月に藩士一一八名の投票によって決められた。投票の結果、当時草深い台地であった仲津郡錦原(現豊津町)が建設地に決定したのである。建設工事は同年一二月二四日から開始され、諸役所は翌年一〇月一七日に竣工、香春藩庁における執務は一一月四日までとし、同月七日からは錦原で政務取り扱いが始められた。一〇代藩主忠忱が、肥後から帰国後に寓居していた田川郡赤村正福寺から錦原に移ったのは同年一一月二八日であり、新しい藩名「豊津」が新政府から許可されたのは、一二月二四日である。
なお、新藩庁の建設するにあたっては、領内豪商からの献金に負う部分が大きかった。小倉新魚町で諸国書状取次などを営んでいた中原嘉右衛門(後に嘉左右)は、藩庁の香春移転後、主に財政面で藩政に深くかかわったが、豊津の藩庁を建設する際、町家の建設は彼が一手に引き受けている(『中原喜左右日記』)。また、京都郡行事村の飴屋(玉江家)は、藩校・育徳館の建設に私財七千両を投じ、同じく行事村の新屋(堤家)は、民政局の建設を引き受けた。さらに、仲津郡大橋村の柏屋(柏木家)は、慶応四年八月に一万両を藩へ献金し、藩庁建設が始まってからは「献金御用」を勤めている。