村の困窮と再建

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 嘉永六年(一八五三)における小倉藩の農村では、夫役(ぶやく)が多いことから「本田百姓」の困窮を招いていた。夫役は高一石に五~八人ほど掛かり、中層以上の農民は役の少ない新田などの「徳田」を多く抱え、中以下の者が「本田」を多く抱えていた。夫役は中以下の農民へ集中することになり、彼らは困窮して潰百姓となり、無主地の増大を招いていた。
 こうした農村の建て直しのため、藩は「根付料」、「仕居料」、「仕組米」などを貸し与え、天保一一年(一八四〇)「御改法」では年貢収納に携わる検見役人の出郡をやめて村の経費節減などの方策を試みる。また村々でも独自に再建策を講じており、安政三年(一八五六)に京都郡長音寺村では「割地」による建て直しをはかっている。同年二月、長音寺村で田地四町五反余の根付け困難が明らかになったので、大庄屋中村平左衛門は現庄屋を退役させ、新たに延永村庄屋前田元平に兼帯させることを筋奉行に願った。願いは許可され、大庄屋中村は新庄屋前田に建て直し方法を考案させた。その案は(『中村平左衛門日記』九巻、三九〇頁、北九州市立自然史・歴史博物館発行)、
 
 前田元平来る、長音寺村御根付方、其外仕法立一件申し出る、自分抱え持ち徳田一町七反程村方に差出し、其外の田地善悪相混し、鬮(くじ)田に仕組み申したく、これにより極村の振合をもって、当秋より臨時拾石程も下され候様申し出る

 
であった。農民が「本田」耕作を忌避することが手余り地を発生させているので、前田は自らが所持する「徳田」一町七反を村へ差し出し、これも含めて耕作する田を鬮で決める割地を実施してすべての田地に根付けするという。さらに彼は一〇石の救米を申請し、村再建の邪魔になる「農業殊の外不精」の農民四人を「帳外」(追放)することを求めた。この案は認められ、「不精」農民は追放されている。また同じく岡崎村でも、庄屋が交代させられ、新庄屋は新百姓仕立てによる再建案を出し、その費用要求を提出している(米四石四斗・大麦二石四斗・札三〇目)。
 割地・新百姓仕立てのほか、藩の指導による社倉米・積立米があり、これは庄屋や「徳人(とくじん)」などの富裕者から米金を拠出させて積み立て、備荒貯蓄であるとともに「亡村」への貸付もしていた。さらに村々では、独自に村予算の余分を積み立て、これを手永内の難渋村に貸し付ける「備義倉」を計画、実行している所もあった。京都郡黒田手永では、「村辻遊米等を持寄」って「備義倉」を立て、年二割で村々に貸し付けている。「備義倉」の米高は安政六年に三六石余であり、文久三年には一九一石余に増加している(安政六年「黒田手永義倉米年々勘定帳」、「末松文書」末松喬房氏所蔵、行橋市前田)。これらの対策にもかかわらず、慶応三年(一八六七)における仲津郡国作手永では本百姓六七四軒に対し、一八〇軒の無高百姓が存在し、元永手永でも本百姓六三〇軒、無高百姓一八〇軒であった(慶応三年「仲津郡竈数・人数・牛馬数書上大寄帳」半田隆夫校訂『豊津藩 歴史と風土』三輯、豊津町発行、一九九二年)。無高層が異常に多いわけでないが、彼らは小作あるいは日雇となって多く村々に滞留した。
 その一方で地主的成長を遂げる者たちがおり、幕末になるにしたがい藩へ献金して格式を獲得する者が増大してきた。彼らは「徳人(とくじん)」と呼ばれていた。