窮民御救と返済の延期

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 文政四年(一八二一)、藩は領内の窮民数を調査し、全員へ米一俵を与えることにした(『中村平左衛門日記』三巻、二二~二四頁)。郡代杉生十右衛門の達には、藩による救済に感謝すること、それまで「極難の者」を救助してきた「村役」、「徳人」、「実義深切」の者たちに今後も施行を続けていくように、とある。窮民に認定された者は全領六郡で四六〇人、そのうち企救郡は九五人であった。この後も藩による救済は続けられていき、財源確保の名目で家臣への「上け米」や富裕者からの献金を課していく。また庄屋や「徳人」らも施行を続けており、嘉永四年(一八五一)の仲津郡大橋村では(嘉永三年「見聞録」、「柏木家文書」柏木信一氏所蔵)、
 
 世上一統困窮の様子にて、ことのほか難渋の趣、わけて当国困民多く、三、四月ころよりその在方より乞食躰に相なり候もの、日々相増し候、当村にでも二月二十三日より庄屋役宅において徳人中より救米二十石だけ出し、右の分当村内極難のもの七十四人日々かい(粥)の焚施行いたし候

 
とあり、「徳人」が米二〇石を出し、村内七四人の「極難のもの」へ施行している。この「徳人」という呼称自体が、富裕な者は窮民への施しをすべきだという観念を背景にしており、彼らは「世上一統困窮」などの非常時には窮民からも、また右の郡代の達にもあるように藩権力からも施す主体として期待されていた。
 これら救米は窮民との矛盾緩和をはかったものであるが、救米によって窮民がいなくなるわけではない。天保一〇年(一八三九)に藩から企救郡へ二八〇俵の救米が与えられた(『中村平左衛門日記』七巻、一九頁)。窮民の認定がどのような基準で行われたか明らかでないが、この時の受給対象者は六九〇三軒であり、文政四年の受給者九五人に比べてはるかに増大している。窮民数は幕末になるにしたがい増大していき、京都郡の新津手永では安政二年(一八五五)に三石の救米が藩から与えられ、これを二五人の「極難」者に配った。難渋の度合いや家族数によって、個々人の受給額は違うが、平均すると一斗二升ほどである。翌年も米三石が与えられたが、受給者は五〇人に倍増したため、受取額は六~七斗に半減した(『中村平左衛門日記』九巻、一七三・五六二頁)。
 これら窮民をはじめ中下層の農民は多く借財を抱えているものだが、文政一一年(一八二八)から借財返済を猶予する対策が講じられている(『中村平左衛門日記』四巻、一一二~一五頁)。この年は「前代未聞の大異」という凶作であり、年貢徴収の困難を予想した企救郡津田手永の庄屋たちが一〇月一日に大庄屋宅で会合した。会議では「無尽講田並諸借財差引、当年一ケ年差延候」ことが決定され、大庄屋を通して郡役所へ申請し、一〇月五日に許可が出る。これによって、凶作であった企救郡の村々では年貢が皆済でき、大庄屋中村はその年の『日記』の最後に「誠に時にとっての妙策」だと記している。
 彼によると、小倉藩では年貢納入の際に無尽講(むじんこう)の掛け金や借財の差し引きをしていたので、農民たちは年貢分以外にも納めねばならなかった。この年は一年間の支払猶予が決定されたから、年貢分だけでよいことになり、通常年よりも納入額は減少した。さらに貸主側も利息引き下げや小作料を減額するなど、「聖人の御代にも珍敷事」だという。
 支払が猶予された無尽には、藩による強制的な無尽もあるが、多くは農民内部の相互扶助を目的とした金融関係であり、借財も農民間の貸借関係であった。したがって、藩にとって、この方策は年貢を徴収するための「妙策」であったし、村請制のもとで納入責任をもつ庄屋たちにとっても「妙策」であった。また農民たちもこの「妙策」を自ら要求するようになる。
 二年後の文政一三年(一八三〇)一一月、それはどの凶作ではなかったが、村々から借財などの返済猶予を求める動きが起こる。発端は企救郡の上曽根村であり、大庄屋中村の『日記』によると(『中村平左衛門日記』四巻、四七八~八八頁)、上曽根村の者が氏神社に集まり、支払猶予の決定をした。これが他村へも波及することになり、大庄屋中村は同村庄屋らを呼びつけ、「誤書」を提出させた。農民の貸借関係は一村内で完結するものでなく、村外との関係を有しており、一村における返済猶予の決定はすぐさま周辺へ波及することになる。上曽根村では「銀主の方人数少く候間、借主の勢力に恐れ」て決まったのであり、他の村々では貸主との折り合いがつかず、「徒党がましき次第」となった。これらの動きは抑え込まれ、借財などを払わねばならなくなったが、発端の上曽根村では村内における貸借、無尽についてのみ猶予が認められ、一定の妥協がはかられている。
 大庄屋中村の『日記』にみえる支払猶予は、凶作であった文政一一年(一八二八)と天保七年(一八三六)だけであり、何度も実施されたわけでない。慶応二年の打ちこわしでは多くの「徳人」が打ちこわされ、彼らの所持する貸付帳簿が押収・焼却されている。この行為は突如生まれたのでなく、前提として藩による窮民救済としての支払猶予の決定があり、窮民自身による支払猶予の要求、さらに「借財捨り」を求める動きがあった(『中村平左衛門日記』九巻、二六八頁)。これらの行動を支えたのは、非常時において富裕層は窮民へ救済・施行しなければならないという社会規範であった。