農村改革については、各郡ごとに倹約・農政の簡素化に関する意見書を提出させ、年貢米の「御郡取立」(蔵方役人の廻郡中止)を決め、七月から庄屋帳簿の検査を始めた。過去五年間分の「取立帳」「勘定目録」などを全庄屋から提出させ、これを家老嶋村宅に運び、ほぼ二カ月にわたって不正の有無を調べた。不正が発覚する以前に自訴する庄屋らがおり、「延永手永の庄屋は残らず自訴」とか「田川郡大庄屋よりも段々自訴」とある(『中村平左衛門日記』八巻、六六三~八八頁。
全体でどれほどの庄屋が退役となったか不明だが、京都郡では四人の大庄屋すべてが役儀取り上げとなったので、それまで企救郡の大庄屋を勤めていた中村平左衛門が京都郡延永・新津手永へ転村することになった(安政二年一月二四日)。小倉藩における庄屋転村は、郡を越えて移動することはあまりないが、中村の場合は大庄屋全員の退役という事態から京都郡へ転村している。
庄屋転村はかなり頻繁に行われており、安政三年(一八五六)に京都郡下片島村の庄屋を勤めていた山本弥平次の場合(『中村平左衛門日記』九巻、六〇八頁)、
文政一一年(一八二八)に延永村庄屋
天保三年(一八三二)に二崎村庄屋
同五年(一八三四)に南原村庄屋
同九年(一八三八)に下片島村庄屋
同一〇年(一八三九)に南原村庄屋
同一三年(一八四二)に与原村庄屋兼帯
同一四年(一八四三)に新津手永勘定庄屋
嘉永二年(一八四九)に与原村庄屋
同四年(一八五一)に浜町村庄屋
同五年(一八五二)に下片島村庄屋
天保三年(一八三二)に二崎村庄屋
同五年(一八三四)に南原村庄屋
同九年(一八三八)に下片島村庄屋
同一〇年(一八三九)に南原村庄屋
同一三年(一八四二)に与原村庄屋兼帯
同一四年(一八四三)に新津手永勘定庄屋
嘉永二年(一八四九)に与原村庄屋
同四年(一八五一)に浜町村庄屋
同五年(一八五二)に下片島村庄屋
となり、安政三年(一八五六)まで同村庄屋を勤めている。転村の範囲は、京都郡の新津手永・延永手永であり、それほど広範囲を転勤するのではない。平均して二~三年の勤続年数であり、頻繁な転村状況をうかがうことができよう。
庄屋職は世襲ではないが、ほぼ世襲の形となっており、庄屋給の多い村、少ない村、庄屋から大庄屋へなど、勤務成績による転勤が行われる。庄屋転村の人事に大庄屋が大きく関与しており、安政二年に京都郡の大庄屋となった中村は、早速に手永内の庄屋転村案を作成し、ほぼそのまま認められている。
転村の繰り返しによって、庄屋は村の代表という性格を希薄化させ、単に年貢取立の役人というべき存在に変わっていき、村民との対立を招くようになる。そこには、藩による庄屋帳簿の検査で明らかになったような不正が絡んでいた。