小倉藩の庄屋は頻繁に転村しながらも、会議を開いて相互の連絡を密にしている。中村平左衛門の『日記』によると、彼は文政五年(一八二二)四月一四日、企救郡小森手永大庄屋に任じられ、同月二一日の記事に「仲真中木町郡屋において寄合」とある。木町郡屋や大庄屋宅を会場としてかなりの頻度で開いており、出席者の「仲真中」(仲間中)とは企救郡大庄屋六人のことであり、議事内容はあまり詳しくないが、行政全般にわたる大庄屋会議である。大庄屋会議の下に手永ごとの庄屋会議があり、文政五年の小森手永では九月三日に大庄屋宅で開いている。
手永ごとの庄屋会議、郡ごとの大庄屋会議、その上に全領の大庄屋会議があり、年に一、二度ほど開かれる。文政一一年(一八二八)一二月、中村に全領大庄屋会議の通知がきた(『中村平左衛門日記』四巻、一三八頁)。郡に一~二人の大庄屋代表が築城郡の椎田郡屋に集合し、「撫育銀」の郡割、井樋仕立、「伊勢屋敷寄付」などの件について協議した。「撫育銀」については、再び同月二一日に企救郡木町の「大郡屋」で全領大庄屋会議が開かれ、「御役筋」も列席の上で郡割が決定された。企救郡の木町には同郡の大庄屋が集まる郡屋と、全領の大庄屋会議が開かれる「大郡屋」があったことになる。木町は篠崎村に含まれ、城下町に隣接していた。
天保四年(一八三三)、小倉藩はこれら自主的な庄屋会議の掌握に乗りだし、「毎月三の日会日出勤」と命じた(『中村平左衛門日記』五巻、三八八~九六頁)。大庄屋中村は三のつく日に木町の郡屋へ出勤し、郡方役人に面会しなければならなくなった。さらに手永内の庄屋会議についても、月に二度ずつの開催が命じられ、津田手永では一日と一五日に開くことにしている。中村は、指定された会議日を「会日」と記し、これ以外の会議を「寄合」、「会合」として区別している。時代の下降とともに会議の頻度は高くなり、「会日」だけでは足りず、多くの「寄合」、「会合」が開かれてくる。小倉藩の庄屋たちは、藩が定めた「会日」を乗り越え自主的に会議を開いて、諸問題に対処していった。
これら庄屋の権限を保証しているのは藩権力であるが、藩が崩壊した時、あるいは崩壊したと人々の目に映った時、庄屋の地位は大きく揺らぐことになる。