政治状況の緊迫化-農兵と譜代召し抱え-

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 全国的に文久期から農兵取り立てが始まるように、小倉藩では文久三(一八六三)年二月に農兵取り立てが通達され、「海岸御警備」を名目に「旧家筋」の者から任命されていく。農兵は無給、武器自弁であるが、苗字帯刀のほか三ツ割羽織などの服装上の特権があり、庄屋などの上層農からの応募が多くすぐに予定の人員に達した。慶応元年八月時点での農兵数は一二八〇人である(「小森承之助日記」慶応元年八月二八日条)。
 これら農兵の任務は海岸警備であったが、政治状況の緊迫化により、農兵に大砲の訓練をさせたり先陣に配備するなど、実戦部隊としての活動が要請されるようになる。警戒感を強める農兵は「御陣隊に相加り候儀、でき兼ね候」とか(元治元年「御用日記」八月条、「長井文書」九州大学所蔵)、庄屋から任命された者も多かったので役儀に差し支えると訴えるようになる。慶応二年(一八六六)六月、農兵は各詰所に配備され、戦闘準備が整えられたが、戦闘が始まると逃亡する者も多かった。最前線の田野浦に配備された農兵の「日記」によると(『北九州市史』近世、八九七頁)、病気と称して交代を申し出る者、小銃を山中に隠して逃走する農兵の姿が記されている。
 農兵は多く上層農から取り立てられたので、それほど旧来の村秩序に影響を与えなかったが、慶応元年五月の譜代召し抱え令は違っていた。近世前期に定められた軍役規定によると、知行取家臣は一〇〇石に三人の家来を抱えていなければならなかったが、すでにこれは破綻しており、規定どおりの家来を抱える家臣はいなかった。そのことが第一次長州戦争で明らかになり、小倉藩は長州再征に対処するため、農民から臨時に家来を召し抱えさせた。これが譜代召し抱えである。
 譜代召し抱えは農兵と違い、抱え主の武士から給金も支給される。農兵の場合は苗字帯刀が許されても百姓身分であるが、譜代の場合は抱え主との主従関係を結び、苗字も名乗り帯刀もする陪臣となる。別に定まった毎日の勤務があるわけでなく、主人の命によって武芸の稽古ぐらいはするが、平日は自宅で農業に従事しておればよかった。
 譜代として召し抱えられた者は、すでに上層農の多くが農兵となっていたので、それ以下の階層から抱えられていく。譜代を抱えるには村の承認が必要であり、しだいに村々は召し抱えを拒否するようになる。第二次長州戦争開始後の慶応二年六月、仲津郡福原村の保平を召し抱えたいとの申し出があった(慶応二年「仲津郡国作手永大庄屋御用日記」六月二三日条)。同村の庄屋・方頭は「保平に限らず、村方のもの何れの御先方より御乞合わせ御座候とも、すべて御断」と大庄屋を通して返答した。彼らは、福原村の一五~六〇歳の男子は一七人の小村であり、すでに四人が譜代となっており、二人が陣夫役で出夫している。残る健康な青年男子は八人であり、耕作も出来かねる事態だと訴える。
 村々の譜代召し抱え拒否の動きに対し、仲津郡筋奉行は戦争継続のため慶応二年七月五日に「勇気喧嘩等相好み、一命を顧みらざる位の者、平常にては村方人別にても持ち余し候、同様の人物」が居れば申し出るように触れた。罪人でも構わないというのである。翌日、入牢となっていた沓尾村平次郎を出牢させ、一人扶持を与えて郡代杉尾募が召し抱えることになった(慶応二年「仲津郡国作手永大庄屋御用日記」七月六日条)。この平次郎は後に打ちこわしの頭取として処刑される。
 どれほどの農民が譜代として抱えられたのか、数として明かでないが、彼らは主人との主従関係を結ぶことによって、庄屋の管轄から外れることになる。そのことは宗門改めと村方夫役に表れる。慶応二年二月、譜代召し抱えが始まって最初の宗門改めが行われた。譜代となった者を村の宗門帳に記載するかどうか、大問題となり、結局は村の帳簿から外し、譜代は檀那寺から印を受けて主人へ提出することになる(慶応二年「仲津郡国作手永大庄屋御用日記」二月七日条、三月八日条)。また夫役については、譜代の者は堤普請などの夫役を勤めればよいことになっていたが、戦争開始が近づき村々へ多大の陣夫役が課されるようになると、譜代の者へも「長州行出夫」を課すか「代札」を出させようとする動きが村の内部から起こり、譜代となった者との対立が生じてくる(慶応二年「仲津郡国作手永大庄屋御用日記」五月二七日条)。庄屋の管轄から外れる譜代の存在は、旧来の村秩序をその内部から大きく揺るがすことになった。
 
写真8 農兵の腰印
写真8 農兵の腰印
(元治元年『御用日記』「長井文書」)
(九州大学附属図書館付設記録資料館 九州文化史資料部門所蔵)