戦時下の状況

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 仲津郡大庄屋国作の慶応二年(一八六六)「御用日記」をみると、三月頃から軍需物資として梅干しや味噌などが強制的に買い上げられ、五月には軍用草鞋一〇万足の納入が命じられ、陣夫役(じんぶやく)が課されて物資運搬や「焚出所働夫」として駆り出されていく。六月に仲津郡筋奉行は、村人口の半数ほどを繰り出すことになるかも知れないと触れ、農兵不足の詰所には「百姓其外得道具、竹槍・棒・鎌の類にて農兵え打交じり」するよう達した。筋奉行は農民の総動員を奨励している。
 戦闘開始が目前に迫った小倉口では、九州諸藩からの出兵がなく、隣藩の福岡藩は藩境に軍隊を駐留させて様子をうかがっていた。ほぼ自力で長州藩に対処しなければならなかった小倉藩は、陣夫役の賦課により耕作にも支障をきたした村々に対し、「相互に助合、作方致し」と残った者による相互扶助を求める以外に方策はなかった。
 六月には米穀の欠乏が深刻となり、藩側は村の米麦保有数、「買喰の者人数」を調査しているが、具体策は何ら講じていない。そうしたなかで、仲津郡大庄屋たちは「口上覚」を提出して蔵米の放出を願った。仲津郡の在町あるいは漁村(大橋村・蓑島村・沓尾村・今井村・真菰村)には「漁人并日雇稼ぎの者」が多く、これまで「徳人飯料残り」を集めて売り出してきたが、いよいよ払底したので、大橋村「御蔵」にある四〇〇石の米を払い下げてほしいという願いであった。彼らは、飯米払底となれば「一統仁気にも相拘候」と強固に要求したが、藩側も兵糧として確保せねばならず、願いを却下している。
 戦闘は六月一七日、長州軍の田野浦急襲によって開始された。この日の戦闘は一日で終わり、肥後熊本藩から一万二〇〇〇人の部隊が到着し、久留米・柳川・中津藩からも兵が集まってきた。下関口を守る長州軍はせいぜい一二〇〇人程度、幕藩連合軍は一〇倍以上の圧倒的多数であったが、戦闘はもっぱら長州軍と小倉軍の間で戦われ、長州軍は七月三日に大里へ上陸、七月二七日には小倉城下への突入を企てて猛攻してきた。三回目の戦闘に熊本軍も加わって防戦したが、将軍徳川家茂が同月二〇日に大坂城で死去した報が伝わるや、小倉口総督の老中小笠原長行は同月晦日に軍艦で小倉を脱出して長崎へ、同時に出動の諸藩兵も引き揚げていった。孤立した小倉藩は戦線を企救・田川郡、企救・京都郡の郡境まで退くことにし、八月一日小倉城に自ら火を放って撤退した。
写真9 慶応2年6月「長州・小倉合戦瓦版」
写真9 慶応2年6月「長州・小倉合戦瓦版」
(「桧垣文庫」九州大学附属図書館六本松分館所蔵)

 城自焼の以前から小倉藩士のなかに撤退論があり、六月一七日の第一回目の長州軍攻撃の後、小倉藩士から嘆願書が藩主へ提出された。それは、今回の戦争は「皇国の御為」の戦争であるにもかかわらず、九州諸藩や幕府軍が攻撃に参加しないため、「私闘」の形となっており、勝算の見込みのない戦争は止めるべきだというものである(慶応二年「慶応仮日記」、「小笠原文書」北九州市立自然史・歴史博物館蔵)。小倉藩士にとって、小倉城は「御預かり城」であり、これを幕府へ返上し、一時撤退して体制を整えるべきだという。これらの嘆願に対し、藩主は「城を枕に討ち死の決心」を求めたが、七月三日の第二回戦闘でも幕府・諸藩軍の応援はなく、七月晦日に各軍は撤退したのである。その時、初めて将軍死去の件を知らされた小倉藩は、攻め寄せる長州軍を防ぎきれないと判断し、まだ小倉に残っていた幕府軍の御目付を小倉城に呼び出し、小倉城の受け取りを求めた。彼らから一札を出させて田川郡への撤退を始める。
 八月一日、藩主とその家族、藩士の家族は肥後熊本を目指して避難し、「御家法御書物」などの重要書類や「御宝蔵御内証金」一万五〇〇〇両余も肥後へ送り(慶応二年「御内証日記」、「小笠原文書」北九州市立自然史・歴史博物館所蔵)、家老小宮民部宅に火の手があがるのを合図に城に火を放った。続々と小倉藩士が田川郡へ撤退し、八月二日には採銅所村庄屋宅で総軍議を開いた。そこでは豊後日田や肥後への撤退なども主張されたが、まずは小倉城自焼の件を幕府へ報告して援軍を期待することになり、それまでは防戦することになった。
 幕府への報告のために派遣された小倉藩士松島馬之助・石井与一郎は八月一九日に大坂へ着く。幕府側への報告書は、老中小笠原長行をはじめ諸藩軍が撤退したこと、勝算の見込みがないため、長州軍の手に渡る前に小倉城を焼いて撤退したことが記されていた(慶応二年「日記御留守居記録方」、「小笠原文書」北九州市立自然史・歴史博物館所蔵)。
 この報告を受けた幕府側は、翌二〇日に将軍家茂の喪を発し、翌日休戦沙汰書を発する。すでに石州口の前線浜田藩でも長州軍の進撃が続き、出兵していた紀州藩はじめ諸藩軍が撤退したため、浜田藩は七月一八日に城に火を放って撤退していた。また六月一四日から戦闘が始まった芸州口でも、幕府は征長攻撃の中核としてもっとも大軍を投入したにもかかわらず、長州側が優勢であった。
 こうした幕藩連合軍の動向を、人々はいかに受けとめたのであろうか。小倉城の自焼を伝え聞いた福岡藩宮浦の商人津上は(『見聞略記』三二〇頁、海鳥社、一九八九年)、
 
 最前小倉表にて長勢との戦ひの節、大敵と見るならは城中に楯籠、総勢一致に心を合せ、命限り根限り、玉薬のあらん限り防御の術をめくらし、矢種子尽なばいさぎよく血戦し、城を枕に打死せば後代迄も武名を残し、是こそ武士の本意なるに、格別の勇戦も不致城を自焼致し、臆病神に誘われて散々に落行、今にての戦争は何とも心得す

 
と書いている。「血戦」してこそ本当の「武士」といえるのだが、そうでなかった。第二次長州戦争は幕府の「御威光」だけでなく、「武士」の権威も大きく失墜させることとなった。小倉落城の事態を、小倉藩領民がどのようにとらえていたか史料を見出すことができない。
 戦場となった企救郡の村々は焼き払われ、彼らは戦火を避けて脱出していた。脱出した中村平左衛門の『日記』も「七月晦日 晴」の日付で終わっている。京都郡で私塾を開く村上仏山の「日記」(「村上家文書」村上良春氏所蔵)には、自焼のことを「所以は知らず、万民驚絶、奔走一方ならず」と記すだけである。