打ちこわしの情報

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 まず、周辺諸藩の収集情報から打ちこわし像をとらえよう。福岡藩が収集した長州戦争についての情報は慶応二年「芸州小倉底井野 下」(「黒田家文書」福岡県立図書館所蔵)にある。このなかに八月一二日、上境村庄屋からの注進として、
 
、此節小倉落城につき京都郡内は百姓中人気を動かし、同郡内大庄屋宅を三軒焼立、夫より引続き村々庄屋並に有徳の家へも押入、法外致候趣に御座候、右を田川郡御宿陣所御聞に相成、御郡代並に御郡奉行其外御役人早打にて出張御押に相成、頭分は七人とか即座に死罪被仰付、其外二十人ばかり御召捕、香春宿へ牢舎被仰付、今程相折合糧物など田川郡へ指し出しおり申候よしに御座候

 
とある。打ちこわしの契機は小倉落城に求められ、京都郡大庄屋の焼き討ちをはじめ庄屋・「有徳(うとく)」の者が打ちこわされており、郡代らが出張して頭取を即座に処刑したという。この他、打ちこわし勢に「長州勢打ち交じり」という報告もあるが、「長州勢にてこれなく、全百姓一揆の由」というのが事実であり、長州軍が加わった打ちこわしではない。また福岡藩宮浦の津上は、八月中旬に情報を得て、京都・仲津郡で「百姓一揆」が起こり庄屋らが打ちこわされたこと、行事の豪商飴屋が米金を施して打ちこわしを免れたと記している(『見聞略記』三一三頁)。
 小倉藩の南部に位置する中津藩家老の慶応二年「日記」(「山崎家文書」山崎昭二氏所蔵、中津市栄町)八月二日条にも、京都郡の苅田・行事村、仲津郡の大橋村、築城郡の椎田村をはじめ各地で村役人や「徳者」が打ちこわされ、あるいは焼き討ちにあっているとある。
 八月一日の城自焼を契機とした小倉藩の打ちこわしは、一日から三、四日頃まで京都・仲津・築城・上毛郡を中心に起こり(企救郡は戦場となり、田川郡には小倉藩士が撤退してきていた)、庄屋・「徳人」らを対象に打ちこわし、或いは焼き討ちを行っている。