天保六年(一八三五)、京都郡上稗田村に私塾水哉園を開いた村上仏山の慶応二年(一八六六)「日記」には、八月一日に小倉城が燃えたこと、京都郡の「苅田辺より百姓一揆蜂起」したことを記す。苅田村周辺から起った打ちこわし勢は、庄屋を襲って「家財積み立て、これを焼」きながら、同郡行事村に移動して町家を打ちこわした。翌二日、打ちこわし勢は行事村の「正之宮」(正八幡宮)に集合して「村々御水帳受け取り、焼亡致すべし」と評議一決した。打ちこわし勢はいくつかの部隊に分かれ、昼頃に村上仏山の居住する上稗田村にやってきた。上稗田村では最初に仏山の甥村上貫一郎が襲われた。貫一郎の父彦九郎(仏山の兄)は天保から弘化期に大庄屋を勤めており、貫一郎も安政六年(一八五九)から下久保村庄屋となっていた。貫一郎は金五〇〇両と米穀をすべて提供して打ちこわしを免れた。当時は、庄屋も農兵として各地に配備されていたので、不在の庄屋が多かった。その後打ちこわし勢は上稗田村居住の村上半六、福井半三郎を襲う。村上半六は仏山の弟で大谷村庄屋、福井半三郎も津積村などの庄屋であった(古賀武夫『村山仏山を巡る人々』一九九〇年)。
上稗田村を通過した打ちこわし勢は上田村の河原に集合して評議し、一手は久保・新町方面へ、一手は箕田・矢山方面へ移動した。ここから山を越えれば、小倉藩士が撤退してきている田川郡香春に至る。同日には郡代から鎮圧部隊が派遣され、小銃を発して一人を打ち留め九人を捕縛した。捕縛された者のうち三人は取り調べもなく斬罪となり、その首が新町村などに晒された(残る捕縛者は田川郡香春に連行される)。
八月二日の鎮圧軍派遣は小倉藩の「慶応仮日記」(「小笠原文書」北九州市立自然史・歴史博物館所蔵)にもある。それには、一日に「京都郡行事町、上野新町並に仲津郡大村」で打ちこわしが発生し、二日に郡代杉尾募が配下を召し連れて頭取分の者を捕縛し、田川郡へ戻ってきたことが記されている。
「役屋ことごとく打ちこわし、水帳焼亡」を第一の目標に、庄屋や在町の商家などを打ちこわした騒動は、わずか二日で終息している。京都郡における打ちこわし勢の行動は、いくつかの部隊に分かれて郡規模で移動した。
幕末在郷町の大絵図をみると(口絵)、小倉藩屈指の豪商である行事村飴屋の敷地の広さがうかがわれる。飴屋は施行によって打ちこわしを免れたが、対岸の大橋村柏木勘八郎は打ちこわされた。ともに藩専売制の御用掛を勤め、数千から一万両ほどの献金を要請される豪商であった。打ちこわし勢が集結した正八幡宮(写真10)があり、行事川の河口には藩の米蔵があり、中には米が保管されていたが、打ちこわし勢はそれらに手をつけていない。
⇒「大橋村 行事村 宮市村見取図」を見る…正ノ宮 正八幡神社