一筆申し上げ候、一昨夜京都郡百姓一揆発り、大庄屋家宅残らず打ち崩し焼き払い、そのほか徳人家宅打ち崩し、昨日より仲津郡の方百姓一揆発り、同様大庄屋・子供役のうち家宅打ち崩し焼き払い、そのほか徳人も打ち崩す、もっとも御帳面・諸帳残らず焼き払い、徳人は貸付の帳面焼き払い(後略)
と記し、公用帳簿・貸付帳簿の焼却を伝えている。同郡長井手永大庄屋の長井又蔵は八月二日に「今晩役宅・自宅焼失」となっており(慶応二年「御用日記」八月二日条、「永井文書」)、彼が慶応四年五月に提出した「口上覚」によると、「同意しない者は片っ端から焼き討ちにする」という参加強制によって村人が動員され、二日の晩に役宅・自宅・馬屋など一〇棟が焼失した。
現在、一年後に再建された家屋は残っていないが、約二〇〇〇坪の広大な屋敷地は残る。彼は、打ちこわしに備えて家財道具や「諸帳面類」を近くの村々に避難させていたが、打ちこわし勢はそれらを捜し出し焼き捨てている。難を逃れた帳簿類が今日、「永井文書」として九州大学九州文化史研究所に保存されているのである。「口上覚」は、長井手永内の庄屋・「徳人」たちが「出米」の約束をして打ちこわしを逃れたことを伝えおり、行事の飴屋のように、一定の施行を行えば打ちこわしを免れることができた。また、手永内の質屋八軒が「質物ばかり取り返し」の被害にあったことも伝えている。
打ちこわし勢の得物(えもの)として、上毛郡の打ちこわし勢に加わった寅吉の「実見談」によると、「持物は松明、竹槍又は槍・刀・手斧・なた・鎌・山の鉦・太鼓・法螺貝・金盥等であった」という(「小倉藩丙寅農民一揆」、「福岡県史料叢書」八号、一九四九年)。彼らは農具類のほか竹槍や刀も所持しているが、すでに小倉藩が長州勢に備えて農民に竹槍や松明を用意させていた。さらに彼らは鉄砲も所持していた。京都・仲津郡の頭取として処刑された沓尾村平次郎らの持ち物として、大小の刀、鉄砲が没収されている(慶応二年「仲津郡国作手永大庄屋御用日記」八月九日条)。平次郎は七月に郡代から召し抱えられて一人扶持を給されており、彼の鉄砲や刀は郡代から貸与されたものと思われる。彼のように、中下層の農民から譜代として召し抱えられた者たちが打ちこわしに参加したから、打ちこわし勢は農具以外の得物を所持している。しかし彼らがこれを武器として使用した形跡はなく、鎮圧隊との武力衝突や人身殺傷も行っていない。
豊前四郡の打ちこわしは郡規模の集団であるから、各集団に頭取がいたと思われるが(寅吉は上毛郡の頭取として八屋村清兵衛が処罰され、京都郡の頭取は力士稲荷山甚五郎だったという)、藩による頭取詮議が行われていないので、十分に明らかでない。村々への参加強制によって、庄屋・「徳人」層以外の村人が加わった打ちこわしの具体的行為など、不明な点は多いが、庄屋・「徳人」層を打ちこわし、検地帳などの帳簿・貸付帳簿の取り上げ、焼失、または質物の取り返しを行っている。
検地帳などの焼却が現実に行われているかどうか確認しておくと、慶応四年「仲津郡節丸邑本田畠御水帳」の奥書には、検地帳が「慶応二年寅八月、御変動の節諸帳面焼失」したため、正保四年の帳簿をもとに作成したとある(慶応四年「仲津郡節丸邑本田畠御水帳」、「勢島家文書」、北九州市立自然史・歴史博物館所蔵)。また、慶応三年九月に大庄屋長井又蔵は「去秋動揺につき紛失」した「川成帳」を村ごとに書き上げており(慶応三年「卯秋当用諸控」、「永井文書」)、年貢関係帳簿の押収、焼き捨ては事実である。
検地帳はじめ年貢関係帳簿の焼却はどういう意味をもっていたのであろうか。検地帳は、年貢・夫役を徴収する台帳というだけでなく、農民にとっては自らの村の範囲を確定し、自己の所持地を確定する帳簿であり、さらに検地帳に登録された百姓であるという自己の身分をも確定する帳簿であった。村の帳簿のなかでも特に重要な帳簿として代々の庄屋に引き継がれてくるのであり、それは、検地帳が領主と村、領主と百姓の関係を規定する基本帳簿だったことによる。したがって、検地帳など年貢関係帳簿を焼くという行為は、年貢・夫役の納入拒否を意味するだけでなく、領主を領主として認めない、領主-百姓の関係を破棄する行為としてとらえられる。
「水帳(みずちょう)」(検地帳)の焼却は他地域の打ちこわしでもみられるが、それは幕府が崩壊した慶応四年以降に特徴的であり、小倉藩の場合は長州戦争による落城が慶応二年であったことから、より早い段階で現出することになったと考えられる。
検地帳の焼却を小笠原氏がどのように受けとめたか、的確な史料は見出せないが、打ちこわしから一カ月後の九月一二日、藩は京都郡行事に全領の大庄屋(避難してきていた企救郡の大庄屋も参加)を集めた(慶応二年「御用日記」九月二一日条「永井文書」)。藩は、幕府が休戦を沙汰したことを伝え、打ちこわし発生を幕府にいかに説明するかを議論させた。上毛郡の大庄屋友枝角之助らが中心になって「口上書」を作成、全大庄屋が署名、九月一六日に代表として友枝と企救郡大庄屋の小森承之助らが登坂する(慶応二年「御用日記」九月一六日条「永井文書」、「小森承之助・友枝角之介並河江河内守登坂、九月十六日発足」とある)。
長文の「口上書」では(「友枝文書」二八五二・二八五四・三二九八・三三〇七号、九州大学九州文化史所蔵、「口上書」の下書も残る)、数々の小笠原氏による「御仁政」をあげる。そして、打ちこわしにおける年貢関係帳簿の焼却は、攻め寄せる長州軍の年貢米略奪を防ぐための方策であり、決して「一揆」などでないという。最後は小笠原氏の「御取続」を求める内容となっている。これに藩の指導があったのは明らかであり、大庄屋たちも小笠原氏の権力を頼ることで自らの存続をはかっている。
長州藩と決戦せずに退却し城を焼いた小笠原氏にとって、領民が検地帳類を焼却したということになれば、その「取続」も危うくなり、大庄屋らを使って幕府への取り繕いをさせているのである。それほどに検地帳の焼却は大きな影響を与えていた。登坂した大庄屋たちは一二月初旬に帰国しているが(村上仏山の慶応二年「日記」によると、彼は九月一五日に登坂する小森承之助の送別会を開き、一二月一一日に帰国した小森から大坂書林よりの手紙を受け取っている。また、彼らが登坂していることは、京都留守居の日記である慶応二年「日記御留守居記録方」一〇月一七日条(「小笠原文書」北九州市立自然史・歴史博物館所蔵)に、友枝らが「昨十六日夕、着京、旅宿所申出候」とあることから確認できる)、具体的な大坂での嘆願活動については不明である。