仲津郡国作手永大庄屋の慶応二年「御用日記」によると、八月二日、筋奉行は郡夫一〇〇人、草鞋をできるだけ速やかに田川郡へ運ぶよう指示している。筋奉行としては間近に攻めよる長州軍のことで手一杯であり、とても打ちこわしにまで手が廻らなかった。これに対し、大庄屋国作昇右衛門は何度も鎮圧隊の派遣を要請し、ようやく三日の晩、鎮圧隊が仲津郡山鹿村までやってきたが、すでに打ちこわしは終息していた。築城・上毛郡でも同様であり、小倉藩による具体的な鎮圧はなく、打ちこわし勢は自ら鎮静化している。また各詰所に配置されていた農兵もそれほど鎮圧に役立っていないから、上毛郡では中津藩へ鎮圧依頼をしているのである(中津藩の慶応二年「日記」八月二日条、「中津藩政史料」中津市立小幡記念図書館には、上毛郡三毛門手永大庄屋の渡辺甚九郎と小河内村庄屋、農兵二人が鎮圧依頼に来たこと、この要請を断ったことが記されている)。
仲津郡の筋奉行は八月六日に廻郡し、大橋村に庄屋・方頭の村役人、頭百姓を呼び出して説諭し、京都・仲津郡の頭取として沓尾村平次郎を処刑することによって打ちこわしの処置を終了した。この間も長州軍との戦闘が継続しており、筋奉行は村々へ軍需物資の輸送を命じ、仲津郡の大橋村沖に停泊する大江丸から弾薬を運ぶよう求め、行事・大橋村の「御蔵」にある藩米を田川郡の撤退地へ運ばせている。さらに八月一〇日には農民への総動員令を出す。それは「百姓竹槍所持にて企救郡堺に相揃」うよう命じており、この日から始まった狸山での戦闘に参加させようとした。
企救郡を占領した長州軍は本営を企救郡足立村の福聚寺に置き、一方の小倉軍は企救郡と田川郡の境にあたる金辺峠と、企救郡と京都郡の境である狸山に布陣していた。一〇日から狸山を守備する小倉藩の家老小宮民部の部隊と長州軍が戦闘を開始し、仲津郡へは狸山への出動が命じられたのである。一三日にも「今日、惣農兵・惣百姓又々行司へ出張の御沙汰」が出ている。
このように八月一〇日頃から村々へ軍事動員がかかり、「焚出夫」などの陣夫役、松明・草鞋・風呂・衣服などの物資調達が次々に課されてくる。そうした課役を村に課し人々を動員していくのは庄屋であるが、国作の「御用日記」によると、一〇日頃から打ちこわしにあった庄屋たちも職務復帰していることを確認できる。ただし、打ちこわし直後は退役を願う庄屋もおり、かなり動揺していた。八月六日、仲津郡長井手永の子供役(大庄屋の補佐役)長井順右衛門が同郡大庄屋中に宛てた手紙には、
手紙を以て貴意を得候、然は同苗又蔵儀役儀歎願申し出候ところ、願いの通り御免相成候につき、右の段手永両役へ知らせくれ候よう伝言御座候ところ、私儀も焼失に逢い、取り込みかたがたこれまでお知らせ延引仕り候(中略)、当手永只今の模様にては相勤まり申さず(後略)
とあり、焼き討ちにあった彼の動揺ぶりをうかがうことができる。手紙にある又蔵の退役とは大庄屋長井又蔵のことである。長井又蔵が書いた慶応二年「御用日記」(「永井文書」)をみると、八月一日以降の記事が極端に少なくなっており、二日に役宅、自宅を焼かれた後は職務どころでなかった。彼の「御用日記」では、三日に筋奉行から退役を許されたことになっているが、実際はその後も大庄屋としての機能を果たしていく。また八月二四日、仲津郡において大幅な庄屋交代が発表されているが、それはほとんどが転村であり、退役したのは一人にすぎない(慶応二年「仲津郡国作手永大庄屋御用日記」八月二四日条)。上毛郡友枝手永においても、ほとんどの庄屋が打ちこわし対象となっており、しかも多くの庄屋がそのまま同じ村の庄屋として慶応四年まで勤務していることを確認できる。
打ちこわし後も、局地的に庄屋や「徳人」を相手とした不穏な状況は続いているが、退役した庄屋はそれほど多くない。小倉藩の方でも、九月一七日に米五〇〇〇石を与えると発表、一〇月二日には「難儀百姓米方古借の分、当年に限り年延べ申し付け候」という借財返済の一年間猶予を打ち出す(慶応二年「仲津郡国作手永大庄屋御用日記」九月一七日、一〇月二日条)。救米と返済猶予の懐柔策に対して、農民側も年貢・夫役の納入を強硬に拒否するのでなく、前年の一三%減で年貢を納めており、相互に妥協がはかられていく。