慶応三年(一八六七)六月一日、小倉藩は幼君の家督相続を幕府に申し出た。前藩主忠幹は倉長戦争の直前病死していたので、御家督御願書は形式的なものであったが、表向きは忠幹は生存しており田川郡上野の興国寺で病気療養中ということになっていた。遺領相続は六月二五日付で認可され、豊千代丸は忠忱と名を改めた。
慶応三年一〇月、将軍徳川慶喜は大政を奉還、朝廷は王政復古の大号令のもと一〇万石以上の大名に対し、上洛するよう申しつけた。
一〇月一五日、小倉藩(当時、藩庁を香春において香春藩と称していたが、朝廷および維新政府の文書はすべて小倉藩となっており、整合性から小倉藩とする)は京都留守居役二木武兵衛を参与役所に出頭させ、「大政奉還勅許御沙汰を、藩主忠忱の代理として小笠原内匠を上洛させ受理したい」と願い出た。
内匠が香春を出立したのは一一月一五日であったが、沓尾を出航してから荒天つづきで、京都に着いたのは一二月二日である。他藩でも朝廷の求めに応じたものの一一月中に参与役所に出頭したのは薩摩・越前・尾張・安芸・彦根藩など五藩、それに京都近隣の数藩であった。
一二月一四日、朝廷は小笠原内匠と二木武兵衛を参与役所に呼び、王政復古の御沙汰を伝え、「皇国の為に忠誠を尽くすべきこと」を求めた。つまり天皇親政を受け入れ、朝廷に従うことを求めたのである。
慶応四年(一八六八)正月七日、朝廷はいったんは前内大臣の称号を与えていた徳川慶喜に対し「慶喜追討令」を発するとともに、小倉藩に対しても態度の決定と国力相応の出兵を求めてきた。小笠原内匠は正月一二日、参与役所へ出頭して再び「王政復古の御沙汰」を受け、国力相応の人数(兵員)を差し出すことを約した。これが後に戊辰戦争への出兵となるのである。