徳川処分に関する小倉藩の態度

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 その後朝廷(参与役所)は、貢士の名のもとに各藩に連絡係を置くことを命じ、小倉藩では松本恒助(正足)(こうすけ(まさたり))が飯島太郎の変名をもって貢士に命じられた。なぜ変名を使ったか訝(いぶか)るふしもあろうが、おそらく朝廷政権が不安定であったこの時期において、本名を出すことを躊躇したものと考えられる。
 四月二五日、朝廷は「徳川処分」について各藩に意見を求め、しかも二日後の四月二七日までに回答するよう命じた。小倉藩の京都邸には家老の清水勘解由、留守居役は高田浅之助・入江宗記・丹羽六兵衛の三名が滞在していた、その四名に松本恒助を加え、夜を徹して協議し、次のように認めた(『貢士松本正足日記』)。
 
今般、御下問の趣は重大の御事件、卑賤庸劣の身を以て御請奉申し上げ候も恐縮に御座候得共、緘黙(かんもく)仕り候ては興議公論を採いたす候為には、御趣意に相背き猶さら恐れ入り奉り候にて管見、左に申し上げ奉り候。
、徳川慶喜御処分の事
すでに悔悟、恭順、謝罪の実効相立て候はば、御寛典に処すように候ては如何にと存じ奉り候。
、徳川家名御立被下候に付き相続人の事
血統の内人望これ有り藩屏の任に堪え候者と仰せ付けたく、尤も人体の義は熟知仕らざる候にて申し上ぐることは出来かね候。

 
 以上の二点につづき、『徳川秩禄の事』は、「これまで三〇〇年におよぶ功業もあり、御聖恩によって大藩上等の秩禄を給し、祖宗の祭典を欠かさず、旧臣が飢渇に迫られることのないよう」にと、これも松本恒助が飯島太郎の名をもって四月二七日に回答している。
 朝廷は当時、関東・奥羽各藩の不穏な動きを武力によって鎮静させることは困難であると考えていた。そこで徳川処分に関して、家名の存続と寛大な処置を第一に柔軟に対応しようとしていた。しかし、朝廷内部においても徳川処分をめぐる対立があり、岩倉具視が副達書によって「非常の大活法」(武力鎮圧)を各藩の京都留守居役に説く切迫した状況にあった。
 岩倉は「ひそかに考えるに創業経国の大活法は尋常規律を以て処すべからざる事あり」と、慶喜が兇敵に至った経緯を述べ、天皇親征の必要性を大義とし、それを明らかにしようとした。岩倉にとっては徳川処分は緊急の課題であり、そのためには強力な軍備を必要とした。
 閏四月五日、朝廷は諸藩貢士を召集して、「軍制・会計・民政」の三策について、各藩に見込書の提出を求めた。小倉藩では小笠原内匠をはじめ、京都留守居役および松本恒助が協議、再び松本恒助が飯島太郎の名において、次のような見込書(『貢士松本正足日記』)を提出した。
 
御下問
、軍備は民安を保つ所以、兵制を定め海陸軍を興すその術如何に、
 それ武備は止戈(しか)の大経、凶暴を平らげ攪乱を定むる処にして、民政これにより各々の業を安ずることを得る。今や西夷万国互ひに相飛雄し強を争ひ弱を凌がんとす。この時にあたって天下を保全するの一大急務、一日も緩ふすべからず。
 神州は建国以来、用武の邦にしてその備へ不足することなしといへども兵勢の変革あり、治安の惰習あり、更新せずしてあるべからず。国家の典章正に復古、天下の民物ここに一新す是その時機なり。古今郡県封建の間そのよろしきを斟酌し内外の得失異同の際、その便を折衷して我大日本の兵制、大規律を立て国体を一定すべし。然後、海陸軍藩鎮封土の大小に従って兵士、器械、船艦漸次興起すべし。その要実効を求めて虚飾を妨ぐにあり、大綱を立て衆目自ら理すべし。数年を出ずして環海を護するにたらん、惟規模の高遠は期すべしといへども誇張荒蕩の説の如きは深く戒むべし。
、金穀は用度の第一、庶政皆是に依って挙がる、今日の会計の道何を以て立つる所あらん
 外憂内患天下始めて多き故に、属してより物価騰躍して財用漸に乏し、然して人心驕奢(きょうしゃ)衣食の奉に疲れ奔命の費に労す勝ちて計ふべけんや、今日の急務は制度を定めるにあり。制度定めて窘兵(きんへい)游民なく自ら質素に帰れば、費用を省き財養ひ産を興すの道を立つるべし、養財産興の道立て富致すべく百事始めて施設行はるべし。
、東軍未だ成功を奏さず、人心なを危懼を抱くを知らず、何を以て剿殲(しょうせん)鎮定、その宜しきを得ん。
 堂々たる王者の帥、天下是を渇望せざるものなし、何ぞ区々たる辺虜を憂ん、然といへども辺虜掃殲の確策立たず、六軍自ら疑ふときは人亦疑ひを抱かざることを得ず、その機におくれ曠日やや久しく内外疲弊し、人始めて倦厭(けんえん)の心を生せばその変も又しるべからず、畢竟するところは天下蒼生の塗炭を救るゝの至洪の至なり。。
 御仁旨にとどまるべければ、徳川の御所置寛浴の御恩典速に御施行あらせられば、虜情(りょじょう)また恃(たのむ)ところを失ひ、且つ処を失んかの危疑をとき、窮迫致死不顧の志を翻し自ら帰順せんか猶その御仁恩にふくせず跋扈(ばっこ)するに至りては赫然、剛明これ天威を奮せられ一挙鼓動して天下に大義を伸させられば豈不服の理あらんや、緩急の機微それここにあるか。
小笠原豊千代丸家来
飯島太郎再拝謹対

 
 このように、小倉藩の三策見込書は徳川処分と同様、朝廷に対する要望を共に、固有の意見を堂々と述べている。その時点においてこれほど断固として意見を述べたことは、譜代藩として当然のことのようであるが、大政奉還後の状況ではまっとうに言えなかったことである。従来、小倉藩は汲々として朝廷に従ったかの如くいわれてきたが、そうした誤解を解くのが以上紹介した徳川処分に関する小倉藩の回答書および三策見込書である。