朝廷の出兵要請に対し、小倉藩は平井小左衛門を隊長とする平井隊一三七人を第一次とし、第二次は島村志津摩が指揮し大池三郎右衛門以下一〇〇人、葉山平右衛門以下八〇人、合計一八〇余。第三次は渋田見縫殿助を隊長とする渋田見隊三五六人、第四次は小笠原若狭を隊長とする若狭隊三二〇人、第五次は鈴木七郎兵衛を隊長とする鈴木隊八二人など、軍夫を入れると総勢千数百人が出兵している。
この出兵は香春政府が発足して間もないことで、開設したばかりの香春思永館の教職員からも多くが従軍しており、教育現場での混乱は図り知れなかった。
さらに財政面からいえば、慶応三年における藩財政は熊本へ疎開していた藩中家族の生活費を含めて一五万四〇〇〇余両の予算に対し、現有高は三万三〇〇〇両で実に一二万一〇〇〇余両が不足していた。そこで小倉藩は維新政府に対し一五万両の借用を願い出たが、わずか一万八〇〇〇両が貸与されたに過ぎない。すでに藩財政は破綻状態であったが、そこに総勢千数百人に及ぶ朝廷(官軍)への出兵は、藩庫を引っ繰り返しても対応できる金額ではなかった。小倉藩の度重なる借用の申し出に、維新政府は一万両を融資した。このように小倉藩の財政は逼迫、当然ながら藩士の扶持に対しても大幅に減じる処置をとった。
家老や中老は五〇〇石で頭打ち、馬廻役も最高で二〇〇石、小姓・書院番などは一五石を限度とした。切り捨てた知行・切米高をすべて藩庫に入れ、財政の建て直しを図った。