御人数頭 平井小左衛門 家来三人
物頭 志津野源之丞 家来一人
同 沼田藤助 同
御目付 鎌田英三郎 同
使番 沢田奥左衛門 同
軍議役 佐々木五郎左衛門 同
医師 平田瑞庵 同
物頭 志津野源之丞 家来一人
同 沼田藤助 同
御目付 鎌田英三郎 同
使番 沢田奥左衛門 同
軍議役 佐々木五郎左衛門 同
医師 平田瑞庵 同
これら隊士は、沓尾浦で三泊して天候の回復を待ち、二月八日、藩船灘吉丸に乗船した。だが天候が悪く、翌二月九日沓尾浦を出帆したものの、途中で田野浦に避難するなど、大荒れの瀬戸内海を航海、大坂に着いたのは二月二三日であった。
翌二四日、川舟により淀川を遡行して伏見表に到着。それより歩行により隊伍を連ね、京都は六角通り大宮西の相善寺を宿陣としている。
二月二五日、朝廷は御法令軍律を達するため軍監の出頭を求め、平井隊では鎌田英三郎がそれを受領、正式に朝廷軍の指揮下に置かれた。以後、しばらく相善寺で待機していたが三月二〇日、関東二ノ手援兵を命じられ京都を出立することになった。
三月二六日、平井隊は紀州藩、新発田藩などと隊伍を組み、京都を出立し江戸へ向かった。品川到着は四月一八日、それより江戸城二重橋外勘定所の宿陣に入ったのは四月二四日である。