平井隊の奥羽出兵

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 金座および坂下門の警備に当たっていた平井隊に、庄内藩追討が命じられたのは閏四月一八日である。翌閏四月一九日、江戸を出立し横浜へ向かうことになった。その編制は次の通りである。
 
  隊長   平井小左衛門
  小隊長  志津野源之丞
  同    沼田藤助
  同    葉山平右衛門
  同    徳永吉太郎
  監察   鎌田英三郎
  軍議役  佐々木五郎左衛門
  使番   沢田奥左衛門
  医師   平田瑞庵

 
 以上の幹部のほか、隊士一三〇人は奥羽総督府の下参謀前山清一郎(佐賀藩士)が指揮する佐賀兵と共に閏四月二六日、横浜で英国船に乗船、同日横浜を出帆し仙台へ向かった。
 閏四月二八日、一行は仙台領東名浜に到着したが、海岸を警備する仙台兵は、佐賀・小倉藩をかたった長州・薩摩兵ではないかと疑い、上陸を認めなかった。先に上陸した長州・薩摩兵が乱暴を働き、仙台藩は実力で上陸を阻止すると息巻いた。それほどに長州・薩摩兵は嫌われていたのである。そのため仙台藩との上陸交渉は難渋し、佐賀・小倉兵が東名浜を出立したのは五月八日である。
 五月一〇日、佐賀・小倉兵は仙台城下に到着、藩校養賢堂を宿陣とした。そこで事実上、軟禁状態にあった九条総督を救出、五月一八日をもって総督を擁し盛岡へ向かうことになった。ところが、奥羽地方は折からの梅雨期にあたり、連日の雨と川の氾濫で行軍はたびたび足止めをうけ、盛岡城下に到着したのは六月七日である。
 平井隊は盛岡城下の恩流寺・伝法寺を宿陣として五日間の休息をとり、六月一二日を期して秋田領へ進軍することになった。行路は盛岡から雫石峠を経て角館へ向かい、神宮寺から刈和野を経て羽州街道を進み、久保田城で征討軍を編成する予定であった。
 
図1 戊辰戦争の際の奥羽遠征軍平井隊の進路
図1 戊辰戦争の際の奥羽遠征軍平井隊の進路
(『鎌田英三郎戊辰日記』掲載図より作成)