久保田城に軍事会議所を設置

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 佐賀兵および平井隊の久保田到着は六月一八日である。実は九条総督および醍醐参謀は海路八戸から秋田港へ向かっていたが、陸路久保田へ向かったことになっていた。七月一日、九条総督・醍醐参謀は秋田港に到着。翌七月二日、秋田藩の藩校明徳館に軍事会議所が設置された。しかし、秋田藩の藩論は定まらず、藩主の側近さえ薩摩兵の討伐を口にするほどで、九条総督の出兵要請に応じようとはしなかった。
 一方、長州・薩摩・佐賀・筑前・小倉兵の各隊長は明徳館の軍事会議所に参集、それぞれが庄内討伐の先鋒となることを願い出た。これによって九条総督は、長州・薩摩・佐賀・筑前・小倉の諸隊を先発させ、庄内討伐のため進撃することを決定した。その旨を秋田藩へ通告すると、驚いたのは秋田藩の青木理蔵など尊皇有志であった。彼らは砲術所に会合して連署し、「庄内討伐の先鋒となる」ことを藩主佐竹義尭(よしたか)に願い出た。
 こうしたことから、一時は内訌(ないこう)さえ危惧された秋田藩も藩論を統一、久保田城下に滞在していた同盟列藩を代表する志茂又左衛門を斬殺、秋田藩は同盟列藩からの離脱を鮮明にした。そのため、秋田藩ばかりか、弘前・矢嶋・亀田・本庄の各藩も庄内討伐へと藩論を傾斜させ、奥羽鎮撫総督府の意向に従うことを願い出て、ほぼ予定通りに庄内征討軍の編成をみたのである。