院内口の戦い

676 ~ 678 / 898ページ
 庄内征討軍の久保田出立は七月六日である。先鋒は各藩交代と決められ、六日は小倉、七日は薩摩、八日は佐賀、九日は長州と決められた。ちなみに出発時の各藩隊長は次の通りである。
 
  長州藩  桂太郎
  薩摩藩  和田五郎左衛門
  佐賀藩  福島孫六郎
  筑前藩  荒川久太郎
  小倉藩  平井小左衛門
  秋田藩  真壁安芸

 
 七月一一日、一行は夜明け前に横堀村に達し、ここで軍議を開き、院内口から三道に分かれ進撃することに決した。すなわち、及位峠(のぞきとうげ)の本道を小倉兵二小隊と佐賀兵一小隊、銀山口の間道を長州兵二小隊と佐賀兵一小隊、尼門口を薩摩兵一小隊と佐賀兵一小隊、それぞれ大砲数門を加えての進撃である。
 及位峠への本道を進む小倉兵は佐賀兵と共に、及位峠を守備する同盟軍に対し果敢に攻撃を開始した。平井小左衛門は『戊辰東征后援記』に、その戦闘を次のように記録している。
 
 鶏鳴、肥前の兵と共に出発し、及位村に臨み大砲を発す。賊もまた応射す。我が兵は漸時して戦う。
 隊長葉山平右衛門は隊下を率助し賊の側面より横射、砲烟をおかして及位村に入り、賊の砲台に登り、疾く攻む。賊忽ち敗れ山上を望て走る。我が兵は尾鶏絶頂に至る。賊は要害に拠り、砲台を築き防戦す。
 我兵益々奮進烈撃すと雖も地形険阻賊塁固く抜けず、苦戦良く兵大に疲る。此日新荘藩応援を約して不至、是に於て肥藩と共に兵を収め及位村を焼き賊の巣窟を掃い院内に帰る。

 この及位峠の緒戦では、平井隊は同盟軍の臼砲一門および銃一四挺(うち火縄銃一〇挺)を分捕ったが、上田篤兵衛が戦死、高木太兵衛、松島六治、安成昇兵衛、木村施蔵の手負四名を出した。この戦闘について『新荘藩戊辰戦史』は次のように記している。
 
 官軍は太鼓を打鳴らして直に村内に過ぎる橋を渡り、或は河を徒渉して山路をかけあがり、一二三の台場を抜いたが何分要害堅固の上に敵も劇しく防戦した為め、味方には小倉藩上田篤兵衛(元最上郡長上田環太郎父)はクドカキ台に討死し外負傷四人あり。一挙に功を奏し難きを察して一旦院内峠まで引上げた(午後三時)其際及位の民家を焼払た。此際に於ける新荘兵の進止に関し官賊双方から非難を蒙った。

 以上の記述には、新荘兵が応援を約束しながら至らなかったと記している。また『新荘藩戊辰戦史』は、戦死した上田篤兵衛の子息が父を慕って山形県に父をたずね、その地に居住し、後に最上郡の郡長になったという逸話を記している。九州から遥々父の戦死した土地をたずね、その地に住んで郡長になった上田環太郎のことは、涙なくして語ることができない。
 
写真12 上田篤兵衛の墓(秋田県雄勝町・信翁院)
写真12 上田篤兵衛の墓
(秋田県雄勝町・信翁院)