薩摩兵の敗戦については、『新荘藩戊辰戦史』にも、
川端の薩州人数背後よりの不意打に度を失ひ浮足の立たる所に川向には敵将酒井吉之丞此有様を見て取り時分は宜きぞ進め進めと下知すれば、各員川に飛込んで攻懸る。薩州勢は前後の敵に辟易してバラバラに成て敗走し本道を引揚げたるもあれば田畦を渡て南側の柏木台に駆上れるも少からず。新庄が裏を打たと云て荒ばれしも此際のことである。此敗退の薩州勢は小倉肥州人数と共に鼠沢(紫山と小紫山の間)の辺に踏止まり並樹の松など伐倒して聊か防戦の備をなせるやうなりしが、次で鳥越に引揚げ、その一半は新庄城下に帰った。
と述べている。また『戊辰庄内戦争録』は、「新田川に添ふて木樵に向へるが、之は同山上に最後まで踏留まれる小倉兵に遭て可なり苦戦した」と記している。このように、小倉兵と戦った庄内兵の記録さえ、戊辰戦における小倉兵の武勇を伝えている。
また、庄内征討軍に参加していた新荘兵の一部が裏切るという戦闘もあった。具体的には七月一四日のことである。征討軍は鳥越に砲台を築き、薩摩・佐賀・長州・小倉兵は隊を分かって半数を鳥越に留め、半数を本道左右の杉林に伏兵して同盟軍に対峙していた。
午前六時、同盟軍は鳥越の砲台を目指して進撃を開始した。伏兵していた小倉兵など征討軍は杉林から猛攻を加えた。驚いた同盟軍は銃を捨て、間道から舟形へと敗走した。それを追って、偵察の新荘兵に先導された佐賀・小倉兵が進撃を開始した。ところが、清水村を過ぎた所で佐賀兵が同盟軍に包囲され、その救援に小倉兵の徳永小隊(長、徳永吉太郎)が駆けつけると、背後の新荘兵から攻撃されるという裏切り行為があった。
この新荘兵の裏切りについて『薩摩藩隊長戦報』は、次のように伝えている。
新荘兵は二つに相成り候様子にて、肥前・小倉の人数を遠く案内し、後よりしきりに射ち掛け候よし、顕然たる証拠もこれある段、肥前・小倉の隊長より承り候。(後略)
このように、征討軍に出兵した新荘藩の内情は必ずしも一枚岩とは言い切れず、緒戦における背信行為は多くはないが散発している。遠く九州から駆けつけた佐賀・薩摩・小倉の兵にとっては、東北の方言によって敵陣でなくとも疎外されている状況で、非常に困難な戦いを強いられていたのである。