銀山口 秋田・佐賀兵
雄勝峠 長州・小倉・新荘・秋田兵
役内口 薩摩・佐賀・新荘兵
雄勝峠 長州・小倉・新荘・秋田兵
役内口 薩摩・佐賀・新荘兵
この作戦部署のもと、雄勝峠では院内から塩根峠に至る中間地点にある及位村に陣屋を構築することを決めた。鎌田英三郎は七月二一日の日記に、「新庄領及位村え三藩陣屋取建につき場所見る様、深田奥左衛門・佐々木五郎左衛門、加多上万次郎・高木悦蔵両人召し連れ罷り越し候事」とある。また『新荘藩戊辰戦記』では「二三日に出来候」と陣屋完成を伝え、さらに「大滝村両端の小山に胸壁を築き、小荒沢の橋を引き寄せ防戦の備えをした」と述べている。征討軍は、仙台兵の大挙参陣を含めて、あなどり難い同盟軍の反撃を予想し防備を固めていたのであるが、敵の同盟軍は果敢に反攻に及んだ。
同盟軍は七月二四日の軍議で、「塩根坂は賊処第一の要害」と、塩根峠一帯が征討軍によって要塞化されることを恐れ、直ちに大滝村へ進撃することに決した。七月二五日、大滝村へ侵攻した同盟軍(庄内・山形・上ノ山兵)二個大隊に対し、迎撃したのは小倉・新荘兵の合わせて三小隊で、救援は長州半小隊(約三〇人)のみであった。寡兵の小倉・新荘兵は、多数の同盟軍の猛攻を防ぎ切れず及位村まで撤退することになった。
『新荘藩戊辰戦記』は、「元来大滝村は要害の場所なれども、此時官軍は少数の小倉兵の外来り加はらざりしを見れば、此処に於て真剣に敵を喰止めんとの底意は無かりしものゝ如し」と、征討軍の戦意を計りかねている。
七月二八日、庄内兵を主力とする同盟軍は及位村から侵攻を始め、中ノ股から桑沢、つまり役内口を攻撃して新荘兵の守備陣地を陥れた。そのため、黒森峠(九二一メートル)を守備していた新荘兵の一部(一番隊)は孤立、下から進撃してきた同盟軍(主力米沢兵)の猛攻を支えきれず敗退した。
雄勝峠の戦闘では、同盟軍の劣勢に加え、装備優勢な肥前・小倉兵は銃を射ち下ろす恰好で同盟軍を追い立て、同盟軍は朴木沢まで一気に撤退している。さらに小倉・徳永小隊は、銀山口の長州兵を救出すべく突撃を敢行、長州兵の窮地を救っている。
結局、征討軍はこの日の戦闘で雄勝峠および銀山口で同盟軍の侵攻をほぼ制圧したが、秋田領役内口では同盟軍の侵攻を許すことになった。その結果、征討軍は背後からも同盟軍の攻撃にさらされることが憂慮され、非常に危険な状況となった。
七月二八日、平井隊では銀山口の敵情偵察のため斥候を出したが、小山勇が帰陣することなく行方不明となり、後に戦死が確認された。
翌二九日、仙台兵の増援部隊が大挙到着したとの誤報により、征討軍は院内口から横手城に撤収することになり、征討軍は緒戦において事実上敗北した。敗因の一つは庄内藩の後楯となった仙台藩の脅威であろうが、それに加えて敵情把握が充分でなく、作戦の初歩的ミスが指摘される。