岩崎・角間川の戦い

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 庄内藩との緒戦で横手への撤退を余儀なくされた征討軍であったが、新たに長崎振遠隊(約四〇〇人)が投入され、征討軍は勢いづいた。
 長崎振遠隊が横手に到着したのは八月一日である。翌二日、横手に宿陣する各藩隊長は集まって軍議を開き、次のような意見書を奥羽総督府に提出した。
 
、総督、副総督、醍醐卿の御三方のうち、御一人の御出陣を仰ぎ、院内口官軍の指揮、士気の督励をお願いする。
、院内口官軍に会議所を設け、参謀出張の上軍議を統括する。各藩に責任者を置き、臨機の戦策はその者に一任する。
、各藩から一、二名を選び使役となし、戦場を巡見させ、敵の動静を報告し、かつ進退の号令を伝達させる。

 
 緒戦における敗因を各藩隊長自らが反省、検討した結果の意見具申であった。奥羽総督府でもこれを重く受け止め、沢副総督が横手に出向き各藩隊長を参謀添役に任命した。小倉藩では平井小左衛門が参謀添役に命じられ、菊花指揮旗が授与された。因みに長州藩は桂太郎である。また後日、総督府使役には鎌田英三郎が命じられ、菊花使役旗を授与されている。
 八月三日、総督府では小倉兵の奮戦に対し感状とともに金七〇〇両を下賜、各人に五両宛配分している。隊長・使役に対する菊花旗の授与とともに、兵士に対する金子の配分により、征討軍の士気は大いに向上したのではなかろうか。
 八月六日、皆瀬川(雄物川の支流)に同盟軍接近との飛報に接した征討軍は、横手で軍議を開き、次のような守備部署を決定した。
 
  深間内・浅舞方面  秋田・佐賀・振遠隊
  古内・岩崎方面   秋田大山隊・薩摩・小倉兵
  馬鞍・増田方面   長州・新荘・秋田兵

 
 横手には秋田藩の家老戸村十太夫(一万石)が城代の横手城があり、その四方は山に囲まれていた。わずかに開けた北西に雄物川が流れ、川を下ると岩崎を経て湯沢に至る。
 八月八日、征討軍は皆瀬川を目指して進撃を開始した。深間内の秋田・佐賀・振遠隊は浅舞方面に進み、横手の秋田大山隊・薩摩・小倉兵は十文字から古内へと進撃した。馬鞍の長州・新荘・秋田兵は増田へと進撃している。対する同盟軍主力は庄内一番大隊および二番大隊で、若干の山形兵と仙台兵が参加していた。
 この日の戦いは三道とも激戦になったが、中央道の小倉兵を中心に戦況を述べることにする。
 午前六時、小倉二小隊・秋田大山隊は外目(横手より南約四キロ)より皆瀬川に進み、川を渡って岩崎に入ったが同盟軍の姿は見えなかった。そこで後続の薩摩兵が川を渡ろうとしたとき、突然同盟軍が川岸の高台から現れ小銃を乱射した。そのため、小倉二小隊(葉山・徳永隊)および秋田大山隊は薩摩兵の援護を受け、十文字村へ撤退した。しかし、小倉兵は四名が負傷(軽傷林与次郎・中山半槌・吉元伝蔵、重傷宮田庄右衛門)した。
 翌八月九日、増田村へ進撃した長州・新荘・秋田兵が苦戦となり救援を求めた。小倉兵は一小隊(志津野隊)および新荘兵半小隊を増田村に差し向け、さらに弾薬を急送して同盟軍を撃退、小康を得て外目に帰陣した。ところが、密かに「撤退せよ」との命があり、征討軍は夜半に横手から神宮寺へ撤退することになった。撤退の理由は、
 
、小砂川口の征討軍が雄勝川の河口近くまで敗退したため、征討軍が庄内軍に包囲される危険性があった。そのため、横手から神宮寺・大曲へと撤収するの止むなき状況に至った。
、同盟軍に加担した盛岡藩が予想以上に兵を増強し、皆瀬川を渡河し横手へ侵攻しつつあった。
、近日、救援部隊が到着するので、征討軍の立て直しのため撤退させた。

 
 以上の三点が考えられる。沢副総督は八月一一日、神宮寺で次の作戦について軍議を開いた。その頃、同盟軍は庄内・上ノ山・仙台・山形兵などが糾合して横手へ進撃、同地からさらに久保田城への要衝角間川を窺う状況であった。沢副総督は翌八月一二日も神宮寺で軍議を開き、次のように角間川の守備部署を定めた。
 
、佐賀・小倉・秋田・新荘から各一個小隊を出し角間川村を守備する。
、各藩から一個小隊を出し、大曲を防衛すると共に角間川村守備隊の予備とする。
、矢嶋兵は大砲一門を以て追分を守備する。
、秋田兵は角間川村に台場を築き、大久保村の防衛に当たる。

 
 八月一三日、角間川村を守備していた各藩兵に対し同盟軍の侵攻が伝えられ、征討軍は直ちに反撃の態勢に移行した。しかし同盟軍の仙台兵は和銃のため、角間川の防衛線を破ることができず戦線は膠着した。打開のため秋田兵は迂回して仙台兵を背後から攻撃、仙台兵は木内村に放火し退却した。
 ところが、その間隙をぬって庄内兵が突出し、秋田兵との間で激戦となった。それを救援するために角間川にあった薩摩・小倉・長州兵は追分へ向かって進撃、秋田兵の救援に当たった。だが、この戦闘で小隊長の志津野源之丞・隊士宮田庄右衛門の二人が負傷、翌一四日に共に死亡した。
 この戦闘に関する佐賀藩の記録は、征討軍の優勢を伝えているが、明らかに戦いに慣れぬ秋田(角館)兵が突出したための失敗である。小倉藩の記録では「我藩、薩摩と各両三人往て軍事を点検す」とあり、秋田兵の戦意について尋問している。
 総督府では秋田兵の怯惰を監視するため軍監・使役に対し、「抜刀にて指揮致し、万一未練候は切り捨て可」と厳しい態度で臨むことを求めた。
 ともかく、征討軍は同盟軍の北上を阻止したが、同盟軍が作戦を変更して角館を窺う形勢が伝えられ、征討軍の部署に変更が求められた。折から、征討軍は大村兵など増援隊を迎え、角館を中心に玉川(大曲手前で雄勝川に流れ込む)から雄勝川に沿って西北の花館、楢岡までに征討軍を部署した。次のとおりである。
 
  角館    佐賀・長州・大村兵
  花館    振遠隊
  四ツ屋村  秋田・新荘兵
  北楢岡   小倉兵・矢嶋兵
  神宮寺   秋田兵