八月一六日、危機に瀕した角館には、大村兵をはじめ長州兵、小倉兵からは葉山平右衛門(作家葉山嘉樹の祖父)の一小隊が守備を固め、ついで二二日には矢嶋兵二二〇人が到着、さらに平戸兵が駆けつけた。
八月二二日、神宮寺の沢副総督は軍議を開き、角館防衛について、
長州・小倉・矢嶋三藩の兵を以て角館在陣の佐賀兵に替え、大村兵を合わせて四藩の軍、明早朝角館を発し大進撃をなすべし。その進退戦略は宜しく参謀添役桂太郎・平井小左衛門について之を議すべし。
と下令、次のように部署した。
長野街道 大村二小隊・長州一小隊・矢嶋一小隊
六郷街道 小倉一小隊・大村一小隊
東山手街道 角館兵
六郷街道 小倉一小隊・大村一小隊
東山手街道 角館兵
この作戦の目的は、大曲まで侵攻した同盟軍の本拠を衝き、合わせて同方面で苦戦を強いられている薩摩兵を救援することであった。二三日暁天、小倉・大村兵は各一分隊の斥候を先頭に相並んで前進した。六郷街道の両側は樹林で敵状は察し難い状況であった。正午近く、突如として斥候分隊の前に同盟軍が現れ激戦となった。この戦闘について、『防長回天史』は次のように伝えている。
角館方面に於ては二三日昧爽(ばつそう)より官軍道を分ち小倉兵大村兵本道より、長兵及び大村矢嶋二藩兵の分隊其右翼より進み、秋田兵左翼より進む、右翼の長兵等鎗見内神林黒土等の賊を撃つ。(中略)本道の小倉兵大村兵国見村に於て忽ち賊と遇ふ、大村兵正面に当り、小倉兵二分して左右より之を撃つ。既に賊と迫る、小倉隊長葉山平右衛門抜刀して先登し、賊数人を傷け身も亦数創を被り、叱咤奮闘躓て倒る。
一賊背後より之を斬らんとす。隊士溝部寿太郎馳せ至り其賊を斃す。賊兵遂に敗走す、平右衛門は隊士之を扶け陣中に帰りしも遂に死す。
一賊背後より之を斬らんとす。隊士溝部寿太郎馳せ至り其賊を斃す。賊兵遂に敗走す、平右衛門は隊士之を扶け陣中に帰りしも遂に死す。
葉山平右衛門の戦死は、志津野源之丞につづいて二人目の小隊長の戦死だった。
翌二四日は、小倉兵は栗沢村から白岩道を、長州・大村兵は金鐙村間道から、いずれも横沢村を目指して進んだ。六郷街道の大村兵は午後六時頃、横沢村の手前で同盟軍と遭遇し激戦となった。そのため、金鐙村にあった長州・大村兵がこれを救援するため六郷街道に向かい、栗沢村から行動を起こした小倉兵もまた側面から同盟軍を攻撃した。砲戦は夜に及び互いに止んだ。この日、小倉兵のなかから高木悦蔵が選ばれて角館兵を指揮し太田村小神成に向かった。悦蔵が率いた角館兵について、『角館誌』は次のように述べている。
二三目の戦で角館隊が三〇人ばかりの敵兵に恐れ、旗を捨てて退いたために大村・小倉両藩兵はやむなく斉内村から退却したと報告していることについて、北主(佐竹北家)は立腹し、北家中に「主立者梟首致候外有之間敷」といきり立っている。そのためか翌日から小倉藩高木悦蔵が角館隊の指揮者になった。怯臆(きょうおく)の批判は当を得たものかどうかわからないけれど、この一戦を転機として角館兵の士気が昂揚したことは、つぎの戦争が証明している。
事情はともあれ、幕末長州藩と戦った実戦体験を持つ小倉兵は、秋田戦線においても勇敢に任務を遂行し奥羽鎮撫総督府から度々賞詞を与えられている。八月二三日、葉山平右衛門が戦死した折、平井隊長は使役鎌田英三郎を小隊長に命じるべく使役免職を上申したが、沢副総督は総督府使役はそのまま小隊長を兼務するように命じた。そうした経緯から、鎌田英三郎は部下の高木悦蔵に角館兵の指揮を任せた。小倉藩士が他藩の兵士を指揮するという異例のことであったが、小倉藩にとってはこれに過ぎる名誉はない。総督府が小倉兵の奮戦によって現状を打開しようとしたことを示しており、如何に小倉兵を評価していたかの証左であろう。
このとき、悦蔵は指揮する角館兵に「赤心隊」の隊名を付与している。赤心隊といえば、倉長戦争の和平交渉がこじれた折、断固継戦を主張して一部の小倉藩士が蜂起結成した隊名である。悦蔵は往時の厳しい状況を思い出し、角館兵の奮起を期待し名付けたのであろう。
八月二五日、中河原・広久内を守備する小倉二小隊および悦蔵指揮の角館兵は、中河原を渡河しようとした同盟軍の斥候に対し攻撃の手を休めず、侵攻を阻止している。
ところが九月八日、庄内兵が渡河を始めた。庄内二番大隊、四番大隊が福部羅渡河に成功し、下淀川・小種村に進出した。この間、庄内一番大隊は大曲に留まっていたが、庄内兵が北上すれば久保田城の危急は目に見えている。これは角館から久保田城に至る羽州街道が制圧されることを意味し、征討軍にとっては開戦以来の重大局面であった。神宮寺の沢副総督は直ちに、軍事会議所を角館に移した。
しかし、幸いなことに同盟軍は渡河地点から動こうとはしなかった。征討軍は久保田城から南東一〇キロにある豊島に薩州兵・島原兵・矢嶋砲隊を急派、さらに新荘兵にエムピール銃を下付して豊島へ向かわせた。
一時は征討軍に有利かとみえた羽州街道では、九月一一日の刈和野の会戦で征討軍は破れ、最悪の事態を迎えた。沢副総督は各藩隊長、参謀添役、軍監、使役を集め烈火のごとく怒った。「自分が軍事会議所を角館に移したのは、副総督府のために大切な兵力を割いてはならないと思ったからで、退却の先駆けをしたわけではない。諸隊は思う存分戦うと信頼したにも拘らず退却とは何事か」と、激しい口調だった。
折悪しく長州藩の桂太郎が不在だったので、小倉藩の平井小左衛門が軍議を主宰し、次のような盟約書(『角館誌』)を作成した。
奥羽ノ形勢朝夕変遷致シ、南部・仙台・米沢其他反覆ニ付、京師ヨリ五畿七道ノ兵ヲ以テ御親征討仰セ出サレ、各藩追々秋田ヘ進軍三千余ノ兵ニ及ビ候得ドモ敵勢益々募リ生民ヲ苦シメ、ソノ暴悪枚挙ニ遑アラズ。終ニ秋田国三分ノ二ヲ掠奪シ、既ニ副総督府ニハ三度御転陣ニ相成リ候。畢竟各々其ノ職掌ヲ尽クサズ空論紛糾、規則・節制全ク相立ズ、真ニ烏合ノ姿ニ相至リ、賊徒コレガ為ニ益々時ヲ得テ大総督府本陣久保田ヘ相迫リ、昨今ノ状態ニテハ官軍ノ威力毫モコレナク、纔(わずか)ニ角館一区ヘ相縮リ候ニ付キ天朝ニ恐レ入リ奉リ候。且昨夜、副総督府御命令モコレアリ、依テ今日ヨリ唯決(ただけつ)ヲ断ジ、衆民一致、大挙進撃、賊徒ヲ速に征罰、賊ノ巣穴ヲ艾尽(がいじん)致スベク、万一ノ事成ラズンバ、共ニ忠義ノ一魂石ト相成リ、国恩を報ジ奉リ条ヲ今般同盟斯ノ如シ。若シ規則ニ違背セバ、即チ其ノ職掌ヲ返シ、其ノ罪ヲ岐度処置コレアルベキ事。
辰九月十二日
辰九月十二日
以上の盟約書に、参謀添役・監軍・使役・各藩隊長は血判を押し副総督に提出した。
なお、角館会議所(参謀局)に詰めた各藩要員は、次の通りである。
参謀添役 | 桂太郎 | (長州藩) |
参謀添役 | 平井小左衛門 | (小倉藩) |
参謀添役 | 石田英吉 | (振遠隊) |
監軍 | 上田勇一 | (長州藩) |
監軍 | 木藤弥太郎 | (薩摩藩) |
使役 | 鎌田英三郎 | (小倉藩、小隊長兼務のため舟岡へ出張) |
使役 | 白井竜吉 | (長州藩) |
使役 | 杉岡雄馬 | (島原藩) |
使役 | 近藤丈左衛門 | (平戸藩) |
使役 | 熊谷武五郎 | (秋田藩) |
切腹を覚悟した各藩隊長が行動を起こしたのは、九月一六日からの会戦である。その戦闘について、軍事史家の大山柏は、『戊辰役戦史』に次のように述べている。
軍議の結果、明一六日には早朝より上淀川以南の敵を攻撃することに決した。(中略)だが、敵は山上に在って頑強に抗戦するので容易に攻撃は進捗しない。両翼の官軍もそれぞれ前面の敵を攻撃し、第二線にいた筑前兵も第一線に増加した。何分地形堅固な山地のこととて戦況は一向に進展せず、敵の抵抗も依然頑強で、終日戦闘が続いた。官軍小倉兵のごときは、この日一日で一人平均三百発を撃っている。明治陸軍の三八式銃でする一名の携帯弾薬数は一五〇発であるから、連発銃の二日分を一日で消費したことになる。
大山柏は大山巌大将の子息である。柏自身も士官学校を出てから、戦史研究のためフランスへ留学している。そうした軍事専門家が小倉兵の戦い振りに感嘆している。
九月一六日、同盟軍の増援隊が上淀川に達した頃、同盟軍の陣地は友軍の兵士でひしめいていた。同盟軍は前日の夜半の戦闘で敗れ、友軍陣地になだれ込んだ。白岩村の仙台兵も高木悦蔵の指揮する角館隊(赤心隊)に追われ、さらに田子内・手倉の同盟軍は手痛い敗北を喫した。つまり同盟軍は敗北したのである。
悦蔵の指揮したゲリラ隊について、大山柏はさらに次のように評価している。
九月十三日官軍は神宮寺より敗退して角館に退き、更に羽州街道方面に攻撃前進するに当り、小倉兵は今まで守備した広久内は長崎振遠隊と交代し、境方面に出動した。その際高木隊は現地に残留したが、副総督府ではこれを官軍の一隊と認め、かつ高木隊長に秋田の佐竹河内の隊兵を付属せしめ、その編成を拡大して従前の白岩村付近に在って任務を続行せしめた。而して一六日の峰の山の戦闘後、一七日に小倉兵は他の官軍とともに峰吉川から刈和野を経て神宮寺に到着したが、敵なく、長兵とともに角館に帰った。(中略)この高木隊はゲリラの本領を発揮し、しつこく敵を追撃して九月二〇日に田子内(横手南東一五キロ)で敵(仙台か一ノ関兵か未詳)を襲撃したのみならず、その夜は更に(湯沢の東一七キロ)に敵(恐らく一ノ関兵)を夜襲し大いにこれを撃破し、小部隊として大きな戦果を得た。(中略)
以上が高木ゲリラ隊の活躍であって、戊辰役にも、かくの如き隊のいたことは、仙台の細谷十太夫が編成した衝撃隊(一名烏組)とともに、わが国ゲリラ戦史の一ページをかざるものである。(後略)
以上が高木ゲリラ隊の活躍であって、戊辰役にも、かくの如き隊のいたことは、仙台の細谷十太夫が編成した衝撃隊(一名烏組)とともに、わが国ゲリラ戦史の一ページをかざるものである。(後略)
大山が高木ゲリラ隊と呼んだ悦蔵の指揮する角館隊の活躍を称賛するものであるが、この作戦により角館防衛戦は成功したといっても過言ではない。『角館誌』も角館隊の活躍を高く評価して、高木悦蔵の報告書を次のように記載している。
九月十三日、弊藩高木悦蔵儀佐竹河内組下人数指揮仕候様参謀局ヨリ被仰付、人数百二〇人引率即夜横沢村賊徒之陣営ニ夜襲仕及攻撃賊徒退軍ニ付其ノママ尾撃。二〇日増田口通リ田子内村ニテ戦争切戦ニ相成、賊徒敗走ニテ其敵手倉ヘ潜居之由ニ付又々夜襲、村之前後ヨリ押来リ、夜中之儀ニ付小銃相用不申切戦ニ及ヒ申候。尤分隊ニテ小安村へ押寄、同様攻撃仕候。
いずれにせよ、高木悦蔵の指揮した角館隊に対する高い評価は、ひいては小倉藩に対する評価でもあり、小倉藩士の高い指揮能力を伝える証左である。
九月一九日、横手在陣の小倉兵に対して軍服一二六着の下賜があった。寒さに向かう折から冬服であるが、奥羽総督府の財政的な余裕の証でもある。