松山城の請け取り

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 九月二二日、角館隊は湯沢へ進撃、庄内清川口の先鋒となった。本隊は参謀添役平井小左衛門が指揮する小倉・長州・薩摩・佐土原兵を主とする約八〇〇名からなる征討軍で、院内峠を越え金山を過ぎ、峻険な山道を通って松山城(藩主酒井忠匡)に向かった。
 九月二二日、会津若松城で最後の抵抗を試みていた会津藩が開城を決意した。結果的には、会津若松城が落城すると奥羽戦線でも同盟軍は一気に瓦解した。
 庄内清川口でも戦勝気分がみなぎり、九月二二日、小倉兵は薩摩兵・長州兵とともに松山城に到着。松山城では藩主酒井忠匡に代わって加藤助之丞から謝罪口上書を受け、薩摩兵は久保田佐八郎、長州兵は上野伴七郎、小倉兵では鎌田英三郎が代表し城請取を果たした。
 
写真13 松山城大手門(山形県飽海郡松山町)
写真13 松山城大手門(山形県飽海郡松山町)

 つづいて一行は酒田城に向かい、二八日の開城のあと、器械請取は軍監使役によって、次のように行われた。『英三郎日記』に記すところの銃器類を、参考に列挙する。
 
一、四百六十一挺ミニケール
一、四挺元込銃
一、三挺ケール
一、四百八十六挺和銃筒
一、三百二十六小銃胴乱(どうらん)
一、六十弍櫃(ひつ)榴弾
一、十六挺百目車台
一、百十四鑓(やり)・長刀
一、二十四万三千七百発小銃弾薬
一、壱面小太鼓
一、六挺和銃胴乱
一、三拾三把竹火縄
一、四挺ホート
一、三十五ケ榴弾四十メ
一、八十一粒散弾薬火付
   但長物入并火薬不付分共
一、弍箇小銃弾薬
一、三面大太鼓
一、五拾四粒榴弾火薬付長持入

 
 以上は庄内藩の落城時、酒田城に残っていた銃器類である。銃の半数は和銃であることに注目、この装備劣勢な庄内兵はよく戦い、一時は征討軍を敗軍かと思わせるほどの戦い振りであった。感慨無量である。
 一〇月三日、酒田城に滞陣する征討軍諸隊に、東京への凱旋命令が伝えられた。一行は即日、大村兵を先鋒として薩摩兵、長州兵、肥前兵、小倉兵の順で酒田を出立、東京へ向かった。
 一〇月一六日、奥羽総督府は小倉兵に対して金五〇〇両を下賜、兵士には三両二歩一朱宛配分したとの記録が残されている。
 平井隊の香春凱旋は明治二年(一八六九)正月九日である。小倉藩は、志津野源之丞・葉山平左衛門の両小隊長の戦死をはじめ多数の兵士を失ったが、維新政府から絶大なる信頼を得ての帰国だった。
 世間では、小倉藩が戊辰戦役に出兵したことも、活躍したことも忘れられている。
 秋田県河辺郡協和町の万松寺には戦死した小隊長の志津野源之丞の墓、秋田県雄勝郡雄勝町の信翁院には森山平右衛門と上田篤兵衛の墓、角館町の常光院には葉山平右衛門の墓がある。なかには、小山勇のように何処に埋葬されたか分からず官修墓地(秋田市)に招魂碑のみという戦死者もおり、戦場で病死して現地で埋葬された小倉藩士の墓もある。
 越後や会津で戦死、病死が伝えられながら、墓地が全く分からない場合もある。なかには百三十余年を経過した今日では墓が傾き、苔むして誰の墓やら分からないものもある。今回(平成一六年一〇月)の調査では、佐土原藩が平成になって建てた供養塔を見ることができた。