渋田見隊の会津出兵

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 明治元年九月七日、京都よりの飛報により藩兵三五〇人の登京が求められ、渋田見縫殿助(旧名、新)を隊長とする渋田見隊が編成された。主な幹部は次の通りである。
 
総括渋田見縫殿助
同副生駒主税
武者奉行富永大助
旗奉行兼参謀里見義左衛門
隊長伊藤主馬助
隊長松崎半左衛門
隊長桃井六左衛門
隊長赤沢理助
隊長奈倉徳右衛門
隊長中村省三郎
軍監秋元奥左衛門
輜重頭兼参謀征矢野主計
輜重頭兼参謀野島卓太夫
使番犬塚弥太郎
使番市岡武右衛門
使番佐々木岩三郎
参謀助真野四郎
参謀助勝平八郎
参謀助小沢武男
兵士三百十人
役々二十九人

 
 渋田見隊の香春出立は九月二一日、沓尾浦で新政府差し向けの軍艦を待っていたが、九月二七日、天候悪く陸路門司に至って乗艦した。一〇月二日、門司浦を出帆し、一〇月七日に越後新潟に入港している。
 しかし、既に奥羽平定の報を聞き、渋田見隊は新発田の総督府に出向き、生駒主税が代表して、「藩兵今日新潟に至る、賊已に平くを聞く、終に快に一決戦を得ずして還る実に憤恨に勝(た)へす。願くは余寇を掃蕩し以て消埃の効を図らん。進退唯命敢て腹心を布く」と、戦争平定後の新任務を願い出た。
 一〇月一八日、渋田見隊はとりあえず二隊に分け、渋田見縫殿助が三個小隊を、富永大助が四個小隊を率い会津若松を目指すことになった。
 一〇月二四日、野尻に至った処で若松参謀局より「土寇に備え、越前藩と協議し鎮撫の部署を定めむべし」との通報に接した。そこで富永大助は、桃井六左衛門には二個小隊で坂下を、中村省三郎には一個小隊で野沢、奈倉徳右衛門には一個小隊で船渡、それぞれ部署することを定め行動を開始した。ところが二五日になると、船渡・野沢などの部署については「戍(じゅ)ヲ撤シ」との命を受け、若松城下へ急ぐことになった。
 渋田見縫殿助の率いる松崎半右衛門の一個小隊、伊藤主馬の一個小隊、赤沢理助の一個小隊は直ちに若松城下へ向かった。両隊は二五日若松城下に達し、翌二六日から高田藩とともに田島村の警備に従い、若松城が落城してから各地で発生した農民一揆の鎮圧に当たっている。
 二七日、赤沢理助の一個小隊は高田藩に代わって、塩生村近傍の農民一五〇〇人余りの挙動を監視、蜂起を未然に防ぐことを任務とした。
 一〇月晦日、桃井六左衛門は一個小隊を率い、永井野村から東河原にかけて乱民の集合を見つけ、鉄吉・駒之烝・武右衛門の三人を捕らえている。
 また、中村省三郎の一個小隊でも、一〇月晦日から一一月二日にかけて東河原村に出動し、一揆勢の首魁東河原助三郎を捕らえ、奈倉徳右衛門の小隊は南宇内村の伊右衛門・善七・喜三郎・勝蔵、砂越村の作右衛門と門加治村の小左衛門を捕らえている。このように、渋田見隊は会津若松城下の治安維持に当たったのである。
 ここで渋田見縫殿助の『羽州出兵戦記』は、意外なことを記している。次はその要旨である。
 
 十月晦日、是より先藩士加藤海蔵は香春より新潟に至り、英艦に乗艦して秋田藩の我が兵の所在を巡行し昨夜若松に至った。この日、海蔵は視察した敵情をつぎのように告げた。
 初め新潟を出港し十月十四日夕、秋田領の飛島沖に停泊した。そこで軍艦二隻を見たが皆日章旗掲げていたが、そのうちの一隻が砲門を開いたので英艦は英国旗を掲げた。すると小艇に乗った二人が英艦に近づき「日本人が乗艦しているか」を聞いてきた。英艦は「一人も乗艦しておらぬ」と答えると、彼等は小倉藩の藩名が記された水桶を見つけて疑問を投げかけた。英艦は「航海中に拾ったもので、函館で魚を求めるつもりで保管している」と答えると、彼等は去った。日章旗を掲げた二艦は幕府の千代田丸と長崎丸であったが、終夜英艦を警戒して蒸煙を出していた。翌日、彼等は小艇で英艦に来て、「秋田沖に富士山丸と開揚丸が停泊しているので警戒すべし」といって去った。越後参謀局の中根参謀に以上のことを告げると、参謀は加藤海蔵を招致してその状況を聞き取り、東京に報告した。

 
 幕府軍艦の動静に関する情報は、征討本営を興奮させたに違いない。この頃、旧幕府海軍の副総裁榎本武揚は海軍総裁の矢田堀鴻が止めるのを聞かず、函館行きを決意した。榎本は勝海舟の説得で新政府に四隻の軍艦を引き渡したが、開陽丸などの優秀艦は手許に残していた。その榎本艦隊は彰義隊や新選組の残党など、二千数百人を乗せて函館へ向かったといいながら、その行方が分からず征討本営は苛立っていた。榎本艦隊はどうして日本海に現れたのか、疑問が残るところであるが榎本艦隊の出現は否定できない。
 さて、本題に戻ることにする。その後、渋田見隊は若松城で降伏した所謂「会津降人」の東京への護送を命じられた。『羽州出兵戦記』によると、まず一二月一一日、「旧会津降人、伊藤岩次郎ノ他軽輩二人、平三郎・幸太郎ヲ米沢ニ護送シ、同藩士佐藤弥太郎ニ引渡ス」と、降人護送に当たった。つづいて、「十二月十三日、若松ヲ発シ東京エ護送スル所ノ旧会津降人、人名左ノ如シ」と、秋月悌次郎(韋軒)や佐川官兵衛などの人名を記している。
 
     猪苗代湖降人之内
  海老名郡治  井深茂左衛門  田中源之進
  小森一貫斎  井深守之進   辰野源之進
  桃沢彦次郎  秋月悌次郎   春日郡吾
     塩川降人之内
  佐川官兵衛  諏訪伊助    相馬直登
  柳田新助

 
 これにつづき、一二月二八日には少数の会津降人を松代藩まで護送する任務を与えられ、行路約二カ月を要し、二月二〇日松代藩に到着している。
 次は「正月九日、十一日、十三日、若松ヲ発シ東京エ護送スル所ノ旧会津降人、人名如左」と記し、会津降人七五一人の名が記され、途中脱走した五八人については人名の右上に「脱」が記入されている。
 この降人護送における渋田見隊の苦労は戦いに勝るとも劣るものではなかった。旧会津藩でも記録のない「会津降伏人名簿」は戊辰戦争の側面、こと会津藩における降人の動静を伝える一級史料であり、『渋田見縫殿助羽州出兵戦記』のもつ価値は計り知れない。
 なお、渋田見隊では出兵中に二人の病死者を出している。生田孫八郎と岩竹伝七の両名である。