小笠原若狭隊

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 小笠原若狭隊の編成は明治元年七月二七日である。主な幹部は次の通りである。
 
  人数頭  小笠原若狭
  小隊長  豊田良之助
  小隊長  三沢市右エ門
  小隊長  山内雪江
  小隊長  佐々木照人
  小隊長  杉生虎之助
  小隊長  鱒淵甲之丞
  軍務   那須何右衛門
  軍務   春日又兵衛
  軍務   平松与次兵衛
  軍務   栗原藤兵衛
  軍務   関又三郎
  軍務   布施済右衛門
  医師   内海意叶
  医師   竹中謙随
       兵士二六六人
       役々 一八人

 
 小笠原若狭隊は八月一七日、沓尾から新政府の差し向けた軍艦に乗り、越後柏崎に上陸したのは八月二五日であった。
 越後口は、山県狂介の率いる奇兵六番隊、長府報国隊が長岡城の猛将河井継之助を相手として苦戦を強いられた激戦地であったが、若狭隊が上陸した頃は既に征討軍が勝利し大勢が定まっていた。
 そのため、若狭隊は越後鎮撫総督府の指揮下に入り、会津若松城へ向かうことになった。まず沼垂へ向かい、それより隊を二分して会津若松へ向かった。
写真14 取り壊される前の若松城天守閣(明治7年)
写真14 取り壊される前の若松城天守閣(明治7年)
(会津若松市提供)

 その一隊は若狭自らが指揮して米沢口へ向かい、他の一隊は春日又兵衛が指揮し津川口から会津へ向かった。若狭の率いる一隊は九月一二日に米沢に入城し、さらに一八日会津若松城に向かい、戦闘のつづく日光口へ進撃した。日光口は幕臣の大鳥圭介が籠った所で、大鳥は仙台に逃れたとも伝えられているが、大鳥の残党が戦闘をつづけていたのであろうか。
 春日又兵衛が指揮する一隊は、津川口から会津高田方面に進撃、付近の掃討戦に任じた。高田方面は会津の猛将佐川官兵衛の率いる一枝隊が果敢に戦っていたが、九月二二日、会津若松城が落城すると一挙に戦意を喪失し、白旗を掲げた。そのため春日小隊は、会津高田で止戦の令を受けた。
 なお、若狭隊でも一人の戦死者、小森定右衛門(九月一五日負傷、九月二九日死亡)を出している。