朝廷から出された陸軍編制によれば、「一、高壱万石ニ付、兵員十名但シ当分間三名」とあり、石高一五万石の小倉藩は隊長以下諸役を含め六〇人余の警衛隊を編制、大坂市中の警備に当たった。主な幹部は、
隊長 鈴木七郎兵衛
軍監兼参謀 大堀彦右衛門
斥候 加来才一郎
斥候 柳瀬政右衛門
兵士六十人
役々 十人
軍監兼参謀 大堀彦右衛門
斥候 加来才一郎
斥候 柳瀬政右衛門
兵士六十人
役々 十人
となっている。ところが、急遽苦戦が伝えられる越後方面への出兵を命じられたのである。
出兵の経過は、小笠原文庫所蔵の『鈴木七郎兵衛越後出兵記』(以下、『越後出兵記』とする)で知ることができる。それによると、鈴木隊の出陣要請は八月二日である。
京都詰の二木求馬による出陣要請は、『維城隊第五小隊奥羽出兵日記』に詳しく、「一、此度久我大納言様東北御出馬付当月二日京師御発途」と述べている。鈴木隊の出兵記では、遊撃軍将とのみ書かれている総督は久我大納言であったことが分かる。
『越後出兵記』によれば、「明治元年七月二十七日、大阪在営の兵隊五十人に命じ遊撃軍将に従ひ越後に赴かしむ、八月二日軍将(久我大納言)京師を発し大阪に至る。鈴木七郎兵衛兵七十余人を卒し安芸・佐土原の兵と合し之を従ふ」と述べている。
鈴木隊は八月四日、大阪で英艦に乗り込むが、その英艦は瀬戸内海を航行し、八月一一日、馬関に入港するという奇異に感じる航路をとっている。馬関では兵士は阿弥陀寺(現在の赤間神宮)を宿営としている。
ところが英艦が故障、さらに船火事を起こし航行不能となった。それがため、鈴木隊は馬関に滞在し代船の到着を待つことになった。その間、八月一三日には国許から生駒主税が馬関を訪れ、軍将久我大納言にお見舞を申し上げている。同時に、鈴木隊の兵士にも酒・肴を渡し慰労している。
火災に遭った英艦に代わり、大州藩から帆船が提供されることになった。一行が馬関を出帆したのは八月一五日である。二〇日に石州浜田に達するが、その後九月二日敦賀港に入港してから、軍務局の指示で陸路越後へ向かうことになった。帆船の遅い船足を危惧したのであろう。
鈴木隊は安芸・佐土原兵と共に九月二七日、越後村上に達したが、ここで庄内征討戦の終戦を聞くことになった。日本本州を半周するような航路の果て、征討戦の終結を聞いた一行の思いは複雑であっただろう。
それでも、鈴木隊は安芸・佐土原藩の兵と共に軍将久我大納言を追って、一〇月二日鶴岡城に入城、同所の警衛に任じている。同七日米沢城へ向かい、一三日米沢を発し、一一月二日東京着、香春に凱旋したのは一二月一〇日であった。
以上記したように、鈴木隊の越後出兵は船路により大阪から瀬戸内海を通り日本海に出て、敦賀から陸路を新潟に向かうといった軍旅で、その間の兵士の苦労は察するに余りある。最初から京都から敦賀へ向かえば船路の苦労もなかったのであろうと思われるが、京都から敦賀への道は治安を心配したのかも知れない。理不尽なことであるが、それが戦争なのである。