島村志津摩の行幸警護

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 慶応四年正月一〇日、家老小笠原内匠は藩主に代わって参与役所に出頭すると、万里小路右大弁宰相より次のように口達された。
 
 今般御下問之義有之被召候得共、今日之至形勢候間、大号令御趣意相心得、国力相応之人数可差出候事。

 
 つまり、国力相応の兵隊(人数)を出せというのである。朝廷の命令であり拒否することはできない。翌一一日、内匠は京都留守居役などと相談、次のように文書を認め、参与役所に差し出した。
 
 今般御下問之義有之被召候得共、今日之至形勢候間、大号令御趣意相心得、国力相応之人数可差出旨御沙汰之趣、奉畏候、右に付私儀不取敢在所表江罷帰り、豊千代丸に申し聞、早々人数差出候様可仕候
此段申上候。
 正月十一日   小笠原豊千代丸家老
小笠原内匠
 参与御役所

 
 この書状に基づき、まず二月六日、平井小左衛門が幹部六人と銃隊一一〇人を率いて沓尾を出帆した。つづいて二月一七日、大池三郎右衛門が銃隊一一〇人を率い沓尾を出帆。さらに二月二一日、重臣の島村志津摩が銃隊一二〇人、葉山平左衛門が銃隊八〇人、合計二〇〇人が沓尾を出帆、いずれも登京することになった。四日前の二月一七日の大池隊の登京を含め、島村が統率したとみて差し支えない。
 島村志津摩は三月九日に京都に着いているが、朝廷からは何の御沙汰もなく、三月一五日には京都留守居の入江宗記が参与役所に出向き、次のような「御用筋被仰付嘆願書」を提出している。
 
先達中より追々御届け申上置候通り、豊千代丸人数着揃相成候処、当御形勢其儘差置候も不本意之至に奉存候、何卒相応之御用筋早々被仰付下置度奉願候。
 三月十五日    小笠原豊千代丸留守居
入江宗記

 
 この嘆願書には、さらに一通、小倉藩が一昨年の長州との戦いにより経済的に疲弊していることを記し、早急に御用筋を与えられることを望むとの添書が付けられていた。要するに、早く任務を与えてくれることを切望していたのである。
 京都留守居の努力によって、在京藩兵に対して大阪行在所の警衛が命じられたのは三月二四日である。
 明治天皇は、三月二一日京都を発輦(はつれん)、男山八幡に参詣したあと守口に一泊、二三日に行在所となった西本願寺に入った。小倉藩兵は「御門外東南角柵門」の警衛を命じられている。
 天皇はそれから約四五日間、大阪行在所で政務を執り、閏四月七日に京都へ戻った。その間、島村志津摩が直接指揮して小倉藩兵が交代で御門外東南角柵門の警衛に当たった。他藩も同様にそれぞれの部署で警衛の任についたのである。
 閏四月七日、天皇が京都に戻ると、小倉藩兵は鈴木隊の要員を残し、在京の藩士は全て国元へ引き揚げることになり、島村志津摩が引率し大阪より沓尾へ向かった。在京の藩士には新政府の出動要請がなければ公費が出ないための処置であった。藩財政の逼迫はこうした面でも節減を迫られていた。