長州との戦いにつづく戊辰戦争への従軍によって、小倉藩の財政は極度に疲弊していた。そのため小倉藩では、新政府(参与役所)の会計官に対して「金札拝借御願書」を出し、慶応四年(一八六八)七月三日、一万八〇〇〇両を借用している。さらに九月七日に一万両を借用したが、東北戦線にあった約一〇〇〇人の兵士に防寒服を送ることができず、わずか一五〇〇両の借用を新政府に申し出て、一〇月に千両の貸与を受け防寒服を購入している。その後一二月九日、二万両を拝借しているが、出兵費用だけではなく、江戸詰の藩士の帰国費用など、当面する藩財政の窮状は藩そのものの存立を揺るがすほどであった。
当時の小倉藩に関する財政上の資料は未だ解明されておらず、確かなことは分からない。しかし、明治三年に新政府に届け出た銃器の数では、最新のアームストロング砲三門をはじめ大砲六四門、旋条の小銃三九〇〇余挺を装備している。苦しいながらも兵備にはぬかりなかったのであろう。
新政府の財政とて同じようなもので、慶応三年一二月に政府が手にした米は江戸で二万五〇〇〇石、大阪で四万一〇〇〇石、京都で五〇〇〇石で、合計七万石余といわれている。それらを含めて、大阪の銀、佐渡の金とを合わせて五七万一二九〇両というのが新政府の財源であった。
それに対し戦費は、慶応四年で一〇三八万両であった。そこで新政府は、金穀出納所の責任者に三岡八郎(由利公正)を命じて太政官札なる紙幣を発行したが信用されず、財政難は容易に改善されなかった。新政府は責任者を更迭、安藤就高を責任者に任じた。安藤は豪商の三井、小野、島田を呼び総計六九三万七四〇〇余両、その他の商人から四六四万九〇〇〇両、オリエンタル商会など外国商社から九九万四八〇〇両、合計一二五八万五四〇〇余両余を借用し新政府の財源としていた。