戊辰戦役への評価

699 ~ 700 / 898ページ
 戊辰戦役の終結によって藩主小笠原忠忱は永世五〇〇〇石を賜るという栄典があった。これは別として、出征兵士にはそれぞれ幾許かの一時金が与えられた。豊津藩士族はその恩賞を基金として、小笠原神社を建立している。しかし、戊辰五〇年の祭典には戦死者の遺族、出陣兵士の生存者はほとんど招かれなかったようで、生き残りの林小三郎は奉告文を読み上げると立腹して帰ったそうである。七〇歳を過ぎても志津野小隊長の戦死を涙して語っていたと伝えられる。
 明治四年四月、西海道鎮台が設けられるにあたって、それが小倉に設置されたことも戊辰戦役における小倉藩の働きと無関係ではない。しかも、西海道鎮台の兵士の大半は旧小倉藩の藩士であった。
 政府のなかで、長州や薩摩といった雄藩の意向が大きく左右されたが、小倉における造兵厰や師団設置によって北九州地域が優遇されたことも、戊辰戦役の影響とみて差し支えない。奥羽総督府の主要人物や長州藩の桂太郎との人脈、奥羽の地でともに戦った戦友としての絆が小倉出身の英才を大きく育てた。たとえば、軍人でいえば奥保鞏元帥、小川又次大将、小沢武男中将に代表されるのではなかろうか。
 これらは一地域の問題であるが、戊辰戦役の大きな成果は、各藩ごとの兵隊を征討軍に参加させ、新政府の常備軍として吸収したことである。その結果として、武威を背景として近代国家を形成したのが日本である。それが帝国主義であったと非難されても、事実は否定できない。
 日本海軍が創設された時、わずか十数隻の軍艦のなかに、小倉藩(豊津藩)の藩船であった飛竜丸と虹橋丸の二隻が記録されている。米国の造船所に残金が払えず新政府に売却したとも伝えられているが、当時の新鋭船であったことは確かであり、史書に豊津藩の名をとどめている。